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【計画実施】真夏の夜の夢
電車はすでになくなっていたから、タクシーで私の家に向かうことになった。
不思議なのはタクシーの運転手さんが、猫が乗ってもとがめなかったことだ。キャリーケースにも入れていない猫を当たり前のようにそのまんま乗せる。普通ならありえない。だけど運転手さんはにこやかに「どうぞ」と言って猫を乗せた。小さな会釈まで添えて、だ。
レイヤーさんはそんな運転手さんに「いつもすみませんね」と謝った。気心の知れた仲らしく、運転手さんは「いえいえ」と柔らかい笑みを浮かべた。それから「久能様にはごひいきにしていただいて、本当にありがたく思っております」とすごい丁寧に返した。どうやらいつも、この運転手さんの乗るタクシーを指定しているらしい。
助手席に座ったレイヤーさんとタクシーの運転手さんが二人で談話する中、私は隣で丸くなっている猫を見る。乗り込んでから固く目をつむったまま、じっとしている。
ただ大きな耳だけは会話をすべて聞いているみたいにしっかり立ったまま、時折ぴくりっと小さく動いていた。
一時間くらい走っただろうか。
「さあ、到着しましたよ」
久能さんの声に私は外を見た。ああ――と心の中で大きく息を吐く。胸の鼓動が早くなって、体がじわじわと熱くなった。帰って来たんだという安堵感とともに、言い知れぬ不安感に襲われる。
両親は零時を回って帰ってきた娘をどう思うだろう。怒鳴られるだろうか。それともまたひっぱたかれるのだろうか。いや、家の両親だ。私が今までいなかったことに気づきもしていないだろう。
ドアのノブを握ろうとする手が震えた。すると背後から「大丈夫です」と声を掛けられた。振り返るとレイヤーさんが仏のような穏やかな笑みを浮かべていた。
「うん」
ふうっと肺の中の空気を一気に吐き出して、思い切って扉を開ける。
「ただいま」
奥の部屋まで届くように大きな声で言った。返事はない。肩にかけていたスポーツバッグがストンッと床に落ちる。それまで緊張して固くなっていた体から力が抜けたみたいに私はその場にへなへなと座りこんだ。
やっぱりだ。両親は私のことなんて、ちっとも気に掛けてくれてない。
「ははっ……」
乾いた笑いが自然に口を突いた。想像はしてたけど、思った以上にダメージが大きい。急に目頭が熱くなって、視界がぼやける。なにか温かなものが目の端を伝って頬を落ちていく。
「うっ……うっ……ひっく……」
涙があふれてくる。必死に声をかみ殺しているのに、うまくいかない。悔しくて膝の上で拳を作る。父に殴られても泣かずにいた。だけど今は涙がとまらない。そんな私の隣に白い猫がのっそりとやってくると、私の顔をじっと見あげた。まるで「泣くな。立て」と言うような威圧的な目で。
それでも立てずにいると、猫はスタスタと廊下を歩きだした。リビングの扉の前で足をとめる。ドアノブを見上げたあとで、ちょんっと軽くジャンプした。ドアノブに器用に手を引っ掛けて、扉を開ける。手が入るくらい開いた扉の隙間に彼は鼻先をつっこむと、そのまま身をすべりこませる。
「ま、待って」
慌てて立ちあがって猫の後を追った。リビングに踏み込むと、猫がキッチンカウンターに飛び乗っていた。彼は探るようにあたりを見回してから、動きをとめた。硝子戸の食器棚に狙いを定めるように低い体勢をとる。タンッと勢いつけて猫が飛ぶ。彼の体はくるっと宙で一回転をする。長いしっぽがムチのようにしなやかにしなり、食器棚のガラス戸をバンッと叩いた。
その瞬間、ガラスがものすごい音を立てて割れる。
「キャアッ! な、なにすんのよ!」
猫をとめようとキッチンへ向かう。猫はこちらを無視して、さらにもう一枚、ガラス戸を割った。粉々に砕けたガラスがパラパラと床に散らばる。猫はガラスの欠片など物ともせず、床に座って呑気に耳を掻いている。
「白夜! こっちおいでって! 怪我するってば!」
猫を助けようとガラスの破片だらけのキッチンへなんとか入ろうとする私の耳に「なんだ、騒々しい!」と憤慨した父の声が飛び込んできた。すかさず声のしたほうを見る。険しい表情の父が私を見た。同時にキッチンの惨状を目の当たりにした彼の表情がますます硬いものになった。
わなわなと唇を震わせている。顔はりんご並みに真っ赤になっていた。
「なにをやってるんだあ、真紀!」
父がキッチンにいる私に向かって駆けてくる。そのままの勢いで腕を後ろへ引いた。
――ああ、また殴られる!
そう思ってとっさに両腕で顔を覆った。目をつむる。だけど……
「うわっ!」
ひるんだような父の声があがった。続けざまにドシンッと重たい物が床に落ちる音がして、顔を覆っていた腕をゆっくりとおろす。閉じていた目を開けて前を向くと、尻もちをついている父と目が合った。彼の脇には鋭い眼光を飛ばす白猫が立っていた。
「このお、ドラ猫め!」
父の怒りの矛先が猫に向かう。
「何時だと思ってるの! 騒々しいわね!」
母がリビングへ入っているのを見計らっていたかのように、猫がさっと身をひるがえして開いた扉の隙間から、玄関へと走っていった。
「なに? なんなの?」
目をぱちくりと丸くする母がおろおろと周囲を見回す。猫を逃がすまいと慌てた父が急いで身を起こした。そのまま猫を追いかけて駆け出す。
――ヤバい! 捕まったら保健所だ!
ハッと我に返って父を追う。
けれど、彼の足はリビングの向こうの玄関へ進むことはなかった。
扉から袴のすそが見える。紫色に白紋様が描かれたものだ。そろそろと音も立てずに中へ入ってくる人物に、私は今度こそ息を飲むことになった。
この世の人じゃないと思えた。ほうっと声を上げそうになる。神か、仏か、それとも悪魔か。とにかく、人ならぬ雰囲気をまとった美しい男の人がやってきたのだ。
白い羽織に紫色の袴をはいていた人物を私はたしかに知っていた。だけど彼じゃない。
私の知っている人は黒髪だった。温和な笑みをたたえる人だった。その瞳は私と同じ黒だったはずだ。
ごくりと唾を飲みこむ。
今、目の前にいる人は白い髪をしていた。黒い目は水色に変わっている。長細い瞳孔はまるで昼間、明るいところにいる猫の目だ。それに頭のてっぺんについた獣耳はなんだろう。袴のうしろから、くねくねとよく動く長いしっぽまで見えている。
完璧な猫耳麗人にレイヤーさんは変身をとげていた。このままの姿をコミケ会場で見たら、何人、いや、何十人が歓喜の絶叫を上げるだろう。
「伊藤信二。おまえ、さっきは真紀の身の心配もしなかったな。それになんだ? なにも訊かずに真紀を殴ろうとしていたよなあ?」
口調までがさっきのレイヤーさんとまったく違う。あの白猫が彼に乗り移ったみたいにものすごく口が悪い。
「貴様! どこから入った!」
父が激昂する。レイヤーさんは目をそらして猫耳じゃないほうの耳に指をつっこんで「うるさいな」と言いたげに顔を歪めた。
その姿がますます父の気持ちを逆撫でたのだろう。父がレイヤーさんに向かってげんこつを振り上げる。
しかしその腕は届かない。レイヤーさんが涼しい顔で父の右の拳を握っている。
「人の話をろくすっぽ聞きもせず、力で相手をねじ伏せようとは笑止千万」
ぐぐっとレイヤーさんが手に力を込めた。長い爪が父の拳に食い込み、皮膚を貫く。その瞬間、「ぎゃあっっ!」という父の悲鳴が耳をつんざいた。
パッとレイヤーさんが手を離すと同時に、父は右手の拳を左手で覆って「痛い! 痛い!」と床でのた打ち回る。
「あなた!」
母が父に駆け寄ったが、彼は「痛い」と繰り返し叫ぶだけだった。
「暴行罪よ! 真紀、警察を……」
と私に叫ぶ母の声がとぎれる。レイヤーさんが母の首に手をかけていた。彼女の目は見開き、全身が怖れでぶるぶると震えている。
「その男の右手は何度も、何度も真紀を殴った。自業自得だ。痛みを知るといい。その痛みは真紀の心の痛みだ」
父が「ううっ……」と短くうめく。レイヤーさんの言葉を受けて、痛みに耐えるように体を丸くしてじっと痛みに耐えている。
そんな父を横目で見たあと、彼は首を絞めている母へ視線を戻した。
「さて、伊藤久美。おまえはどうだ? 真紀を庇ったことはあるのか? あの子の味方になってやったことはあったのか? ん?」
「お願い……します。どうか……殺さないで……命……だけは……」
母の両目から涙が溢れ出す。そんな彼女に向かってレイヤーさんは身が冷えるような美しい笑みをたたえて見せた。
「さあ、どうしようかなあ?」
「やめて! やめてよ、白夜! 父を……母を……殺さないで!」
母の首を絞める白夜の腕に私は必死になってしがみついていた。そんな私を白夜が一瞥する。
「おまえの身の心配もしなかったやつらをまだ父母と呼ぶのか? こんな血も涙もないやつらのために、どうしておまえは泣くんだ? 親と呼ぶのも嫌じゃないのか?」
「そうだよ! だけど! 二人が必死で働いているのは、私のためだから!」
そう。私は知ってる。両親が必死になって働くのは自分たちが裕福な生活を送りたいためじゃない。私の将来のためにやってることなんだって。二人が頭のいい高校や大学に行けなくて苦労したから、私にそういう思いはさせたくないって思って、いつもいつも勉強しろって言っているのはわかってる。惨めな思いをしないで済むように、塾に行かせるのも、頭のいい高校や大学に行かせるためだ。いろんな習い事をさせるのだって、全部、全部、将来私がしあわせに生活するためなんだ。
だから遊ぶ時間も、寝る間も削って仕事に明け暮れている。そんなこと、私は誰よりも知っているんだ。
「でもね。本当はね、私。父さんや母さんにはもう、そんなに働いてほしくない。だってね、ひとりでごはんを食べるのがつらいんだ。まずくてもいい。あったかいごはんをみんなで一緒に毎日食べたい。一緒にテレビを見て笑ったり、どこか買い物に行ったりしてさ。そういう普通の生活をね、普通にしたいの。将来のことよりも……今、しあわせになりたいよ……」
休みの日には両親と一緒にどこかへ行きたい。豪華な旅行なんか望んでない。近くの公園でいい。おにぎり持って、空を見上げて家族でのんびり過ごす。そんな小さな当たり前のことを私はしたかっただけ。
少しでいいから訊いてほしかった。なにがしたい?って。今、なにがしたいって。たったそれだけで、私はもっと素直になれた。家出なんかして、両親を試すようなこともしなかった。だから――
「わかった」
白夜が力強くうなずいた。母の首から手を離すと、目にもとまらぬスピードで両手を何度か組み合わせた後、ぐっと両手を空へ突き出した。
「オン アビラウンケン ソワカ」
彼の両腕の先から一筋の光が天井へと抜けていく。その光が天井を覆うと、そこから光の粒が降ってくる。私の頬に、額に、肩に光が落ちる。落ちた光は雪のように体に溶けて、冷たくなっていた心と体をふんわりと包みこんだ。
「真紀! 真紀! ごめんなさい! 本当にごめんなさい」
母が涙でぐしゃぐしゃになった顔で私を抱き寄せた。母の鼓動の音を聞いたのはいつぶりだろう。
「真紀……つらい思いをさせて……すまなかった」
父の声がした。母とともに父を見ると、父は心から申し訳なさそうに目を伏せた。
「あなた、手は! 手は大丈夫!?」
母が尋ねると父は「光に触れたら痛みがなくなった」と答えた。そして動かしてみせる。彼の手の甲には白夜の爪が食い込んだ傷跡も残っていなかった。
急いでキッチンを見る。あんなに派手に壊された食器棚のガラス戸はまるでマジックショーを見ているみたいに元通りになっていたのだ。
「白夜!?」
白い髪の青年を探す。だけど、たしかにいたはずの彼の姿はウソみたいに消えてなくなっていた。
「力でねじ伏せたのはどっちよ、本当に」
かなり強引だったのに、それでも私は彼に対して感謝の気持ちでいっぱいになっていた。
真夏の夜の夢なんて思わない。
電車で出会った白い猫ときれいな男の人。
彼らは私の小さな夢を叶えるために現れた神様の化身だったんだ。絶対にそうだ。
「また会えるよね」
誰にともなく私はつぶやいていた。
遠くで「ウナア」という猫の鳴き声がしたような気がした。
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