第5話 由良洸介

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 一週間後。その日は夏休み最後の補習の日だった。  いつものように教室に入ると、隣の席に梨央が座っていた。両手で握りしめたスマホの画面を、じっと見下ろしながら。  内容はわからなかったけど、そこにはメッセージがずらりと書きこまれていた。 「梨央……」  そんな梨央に声をかける。  だけど梨央はスマホを隠すように立ち上がり、黙って教室を出て行ってしまった。その姿を追いかけて顔を上げると、スマホの画面を開いている美咲妃と目が合った。 「由良ー」  誰かが俺の名前を呼ぶ。俺は美咲妃から目をそらす。  いつもと同じ教室。美咲妃を囲むように笑っている女子。くだらないことを話しかけてくる男子。授業が始まっても空いたままの隣の席。  俺はその中で今日も変わらない一日を過ごす。  あの中三の受験の時。正しいと思っていたことを間違っていると言われてから、何もかも自信がなくなった。だからすべて本気にならず、どうでもいいように、毎日を過ごしてしまうようになった。  それではいけないとわかっているのに。  放課後、進路のことで担任に呼ばれた俺は、みんなより帰りが遅くなった。ひとりで昇降口に向かって歩いていると、靴箱の前で何も持たずにうろうろしている女子生徒の姿に気づいた。 「梨央?」  そこにいたのは梨央だった。 「梨央、どうした?」  思わず声をかけると、梨央は驚いた顔をしたあと、逃げるように外へ走り出した。それと同時にくすくすと笑い声が聞こえてくる。 「やだぁ、あの子。上履きのまま出てったよ」 「よっぽど急いでるんじゃない?」  女子の声を聞きながら、俺は梨央の靴箱を開けた。中には何にも入ってない。  そんな俺の隣から誰かが覗き込んでくる。 「え、あの子靴なくしたの? マジで? かわいそー」  その声は美咲妃だった。俺は靴箱の扉を乱暴に閉める。 「……いい加減にしろよ」 「え? なにが?」  俺の隣で美咲妃が口元をゆるませる。 「こんなガキみたいなことして面白いのかよ? いい加減にしろよ」 「なに言ってるの? あたしらがなにかしたっていう証拠でもあるの?」  目の前に立つ美咲妃のことを見る。美咲妃は笑顔だったが、本心は笑っていない。きっと俺のことを憎んでいる。  美咲妃のことも、梨央のことも、中途半端にしたままでいるから。 「ばっかみたい」  吐き捨てるようにそう言って、美咲妃が背中を向ける。肩に掛けたバッグについている、見覚えのあるストラップが、俺の目の前で揺れる。  その瞬間、思わず伸びた手が、そのバッグをひったくった。 「なにするのっ……」 「返せよっ! これ梨央のだろ!」 「違う! あたしのだもん!」  美咲妃にひっぱられたバッグから、ばらばらと中身が落ちた。靴と、それからお菓子。俺がコンビニで買った、期間限定の……  それを見た途端、どうしようもない気持ちが湧き上がってきた。 「美咲妃……お前、最低だよ」  つい口を出た言葉。その瞬間、崩れ落ちるように美咲妃が目の前でしゃがみこむ。 「そんなこと……わかってるよ」  突っ立っている俺の耳に、美咲妃の声が聞こえてくる。 「でも悔しかったんだもん。由良があたしのこと見てくれないから。梨央のことばっか見てるから。先に好きになったのはあたしなのに。中学の頃からずっと由良のこと好きなのに……だから悔しかったの!」  美咲妃の周りに女子が集まってくる。美咲妃は俺の前で声を上げて泣いている。関係ない奴らまで遠巻きに俺たちのことを見ていて……なんだよこれ。泣きたいのはこっちのほうなのに。  美咲妃が女子たちに連れられるようにして、外へ出て行く。周りに集まっていた生徒たちが、微妙な視線で俺のことを見ている。俺はその場にしゃがみこんで、落ちたものを梨央のバッグに全部入れた。  そのバッグを持って、ひとりで校舎を出た。夏の暑い日差しが頭の上から容赦なく照りつける。  どうしてこうなってしまったんだろう。どこから間違ってしまったんだろう。  もう……何もかもがわからない。  自転車置き場の隅で、上履きのまましゃがみこんでいる生徒が見えた。俺は黙って近づいて、持っていたバッグを差し出す。  顔を上げた彼女は、声を出さずに泣いていた。目を真っ赤に腫れあがらせて。  あの日。梨央と一緒に帰った日。仲間と一緒にいたくなかったのは、梨央だけじゃなかった。  本当の気持ちを押し殺して、なんとなくみんなに付き合って、ただ笑っているだけの時間を俺も過ごしたくなかった。  だから俺は梨央を誘ったんだ。  梨央と帰ったあの日は、すごく楽しかった。  だけど楽しければ楽しいほど、それを失う時が怖い。だからそれ以上先へは進めない。進もうとしない。  結局俺は、自分が傷つきたくないだけなんだ。  最低なのは、美咲妃だけじゃない。俺だって、そうじゃないか。  何も言わないで、泣いている彼女にバッグを押し付けた。そして俺は、逃げるようにその場を立ち去る。  じりじりとアスファルトに照りつける日差し。拭っても拭っても流れる汗。  いつまでも気温は下がらないまま、もうすぐ夏休みが終わる。
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