第3話 日下部彰史

3/3
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
 ガチャンと玄関のドアが開く。梨央の入ってくる足音が聞こえる。  薄暗いリビングの中、俺は手に持っていた新品のハンカチをポケットの中へ押し込み、時計を見上げて時間を確かめる。  高校に入学してからの梨央は、中学生の頃とは別人のように派手になった。校則違反の短いスカートをはいて、学校へ行くのにも化粧をして、髪も明るく染めた。分担していた家事は全くしなくなり、夜遅くまで遊び回っている。 「どこ行ってたんだよ?」  俺が声をかけると、リビングに入ってきた梨央がむすっとした顔で立ち止まる。 「うるさいな。関係ないじゃん、お兄ちゃんには」 「関係あるから言ってるんだろ? こんな遅い時間まで、何やってたんだよ。家のこと、なんにもしないで」 「だからあとでやるって言ってるじゃん! あたしは忙しいの! いちいちあたしに指図しないでよ、えらそーに!」  梨央が俺のことをにらみつける。俺の頭に母の声が聞こえてくる。 『ごめんね、彰ちゃん。梨央のこと、お願いね』  母さんにそう言われたから。だから今まで頑張ってきたのに。  俺だって忙しいんだ。コンクールは目の前に迫っているし、部員たちをまとめなきゃならないし、進路だって決めなきゃいけないし、逢沢のことだって気になるし……だけど家のこともちゃんと頑張ってきたんだ。 「あー、もうウザい。こんなお兄ちゃんだったら、いないほうがましだわ」  わざとらしいため息と一緒に漏れたその声に、俺の中の何かが切れた。 「いい加減にしろ!」  勢いよく振り下ろした手が、柔らかいものに当たった。ガタンと音を立ててしりもちをついた梨央が、頬を押さえて俺のことを見上げている。  殴った? 俺は殴ったのか? 梨央のことを。  口を堅く結んだ梨央の目が、みるみるうちに潤んでいく。 「梨央……ごめ……」 「最低」  梨央の恐ろしく低い声が、静まり返ったこの家に響く。 「お兄ちゃんはお父さんと同じ。最低」  怒鳴りつける父の声。高く響く母の悲鳴。何かが割れる音。梨央の泣き叫ぶ声。何度も何度も父の手が、母の頬を殴りつける。家族が壊れる、音。  立ち上がった梨央が、俺に背中を向けて去って行く。俺はその場に座り込む。 『お兄ちゃんはお父さんと同じ。最低』  ゆっくりと広げた右手が痛い。だけどきっと、梨央の頬はもっと痛い。 どうしてこんなことになってしまったんだろう。 「……母さん。教えてよ」  散らかったリビングに差し込んだ淡い月の光が、部屋の隅に置かれたピアノを照らす。  母と一緒にピアノを弾いたこの手に、熱い涙がぽたりと落ちた。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!