第2話 逢沢恋乃実

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第2話 逢沢恋乃実

「翔馬くん、野球部辞めちゃったんだってね」  その言葉を聞いた時、私はお母さんと向き合って、ふたりで夕食を食べていた。残業の多いお父さんと、遊びに忙しい大学生のお兄ちゃんはいなかった。  メニューは確か、お母さん手作りの、少し焦げたハンバーグだったと思う。 「……え?」  微妙な間があいてから私が聞き返すと、お母さんは不思議そうな顔をした。 「あら、恋乃実。翔馬くんから聞いてなかったの?」 「聞いてないよ。聞くはずないじゃん」 「どうして? あんた翔馬くんと仲いいから、相談でも受けているのかと思ってたわよ」  仲なんてよくない。  翔馬とは同じマンションに住んでいるし、幼稚園も小学校も中学校も高校もずっと一緒だし、親や近所の大人や学校の友達から、仲いいって思われているかもしれないけど。  だけど翔馬とは仲よくなんてない。だって私、翔馬が野球部辞めたなんて、全然知らなかったよ。  そのあとは食事が喉を通らなくなって、私はハンバーグを残してしまった。  翔馬が野球を辞めたことも、私がなんにも知らなかったことも、お母さんからそれを聞いたことも、何もかもがなんだか悔しくて、そのあとすごく悲しくなった。  * 「最近元気ないねー、恋乃実」  部室でトランペットを吹いたあと、今日何度目かのため息をついた私は、後ろから親友の板井明日香に声をかけられた。 「やっぱあれ? 野球部が負けちゃってやる気なくしちゃったってやつ?」  明日香の口から出た「野球部」って言葉に、私の頭の中がまたもやもやと渦を巻く。 「恋乃実は野球部の応援に命かけてたもんねー。絶対甲子園まで行って、トランペット吹くんだって」 「まぁね」  私は全然気合いの入っていない声で答える。 「そんながっかりしないで元気出しなって! また来年があるんだしさ! 来年こそは恋乃実の夢、叶うって!」  明日香がそう言って私の背中をバシバシと叩く。私はそんな明日香に苦笑いを返す。  ダメなんだよ、明日香。来年はもうないの。だって野球部に、もう翔馬はいないんだから。 「おーい、そこ。またおしゃべりしてる」 「あっ、部長」  聞き慣れた低い声に振り返ると、三年生の日下部(くさかべ)彰史(あきふみ)先輩が、私たちを見下ろすように立っていた。明日香が弾かれたように立ち上がり、先輩の前で気をつけの姿勢をとる。 「板井。フルートのパート練習はここじゃないだろ」 「はっ! すみません! ただいま戻りますっ」  彰史先輩の前で敬礼をした明日香が、ぺろっと私に舌を出して、ぱたぱたと走って行く。 「おいっ、板井、部室の中で走るなよ!」 「はーい」  明日香の声が遠ざかる。彰史先輩は指先で眼鏡をちょっと押し上げてから、私の前でふうっとため息をつき、そして自分のトランペットを手に取る。 「吹奏楽の活動は、野球部の応援だけじゃないんだぞ?」 「え?」 「もうすぐコンクールなんだから。気合い入れてやれよ」 「あっ……はい。すみません」  そうだった。ため息なんかついている場合じゃない。もうすぐコンクールがあって、それが終わると三年生は引退なんだ。  先輩たちにとって最後の大事なコンクール。私たちももっと練習して頑張らなくちゃ。  彰史先輩はそれ以上何も言わずトランペットの音を出す。私も同じようにトランペットを吹く。  今日はたまたま、もうひとりの先輩と後輩の祐美ちゃんがお休みだから、パート練習は私と彰史先輩のふたりだけだった。
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