17人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
第2話 逢沢恋乃実
「翔馬くん、野球部辞めちゃったんだってね」
その言葉を聞いた時、私はお母さんと向き合って、ふたりで夕食を食べていた。残業の多いお父さんと、遊びに忙しい大学生のお兄ちゃんはいなかった。
メニューは確か、お母さん手作りの、少し焦げたハンバーグだったと思う。
「……え?」
微妙な間があいてから私が聞き返すと、お母さんは不思議そうな顔をした。
「あら、恋乃実。翔馬くんから聞いてなかったの?」
「聞いてないよ。聞くはずないじゃん」
「どうして? あんた翔馬くんと仲いいから、相談でも受けているのかと思ってたわよ」
仲なんてよくない。
翔馬とは同じマンションに住んでいるし、幼稚園も小学校も中学校も高校もずっと一緒だし、親や近所の大人や学校の友達から、仲いいって思われているかもしれないけど。
だけど翔馬とは仲よくなんてない。だって私、翔馬が野球部辞めたなんて、全然知らなかったよ。
そのあとは食事が喉を通らなくなって、私はハンバーグを残してしまった。
翔馬が野球を辞めたことも、私がなんにも知らなかったことも、お母さんからそれを聞いたことも、何もかもがなんだか悔しくて、そのあとすごく悲しくなった。
*
「最近元気ないねー、恋乃実」
部室でトランペットを吹いたあと、今日何度目かのため息をついた私は、後ろから親友の板井明日香に声をかけられた。
「やっぱあれ? 野球部が負けちゃってやる気なくしちゃったってやつ?」
明日香の口から出た「野球部」って言葉に、私の頭の中がまたもやもやと渦を巻く。
「恋乃実は野球部の応援に命かけてたもんねー。絶対甲子園まで行って、トランペット吹くんだって」
「まぁね」
私は全然気合いの入っていない声で答える。
「そんながっかりしないで元気出しなって! また来年があるんだしさ! 来年こそは恋乃実の夢、叶うって!」
明日香がそう言って私の背中をバシバシと叩く。私はそんな明日香に苦笑いを返す。
ダメなんだよ、明日香。来年はもうないの。だって野球部に、もう翔馬はいないんだから。
「おーい、そこ。またおしゃべりしてる」
「あっ、部長」
聞き慣れた低い声に振り返ると、三年生の日下部彰史先輩が、私たちを見下ろすように立っていた。明日香が弾かれたように立ち上がり、先輩の前で気をつけの姿勢をとる。
「板井。フルートのパート練習はここじゃないだろ」
「はっ! すみません! ただいま戻りますっ」
彰史先輩の前で敬礼をした明日香が、ぺろっと私に舌を出して、ぱたぱたと走って行く。
「おいっ、板井、部室の中で走るなよ!」
「はーい」
明日香の声が遠ざかる。彰史先輩は指先で眼鏡をちょっと押し上げてから、私の前でふうっとため息をつき、そして自分のトランペットを手に取る。
「吹奏楽の活動は、野球部の応援だけじゃないんだぞ?」
「え?」
「もうすぐコンクールなんだから。気合い入れてやれよ」
「あっ……はい。すみません」
そうだった。ため息なんかついている場合じゃない。もうすぐコンクールがあって、それが終わると三年生は引退なんだ。
先輩たちにとって最後の大事なコンクール。私たちももっと練習して頑張らなくちゃ。
彰史先輩はそれ以上何も言わずトランペットの音を出す。私も同じようにトランペットを吹く。
今日はたまたま、もうひとりの先輩と後輩の祐美ちゃんがお休みだから、パート練習は私と彰史先輩のふたりだけだった。
最初のコメントを投稿しよう!