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第3話 日下部彰史
まいった。今日は本当にまいった。
夕暮れ時。スーパーのレジ。ずらりと並んだおばさんたちの最後尾について、俺は思う。
頑張り屋で、弱音なんか一度も吐いたことのなかったあの子が、泣くなんて。それも電車の中の俺の隣で。
「……まいった」
思っていたことがつい口に出た。だけどたくさんの雑音でざわめくスーパーの中で、俺の声は誰にも聞こえない。
久しぶりにピアノが弾きたいな――買い物かごを持ったまま、一歩前に進みながら、どうしてだかそんなことを思った。
玄関を開けて靴を脱ぐ。
「ただいま……」
誰にでもなくつぶやいて、真っ暗な廊下の電気をつける。奥のリビングからはテレビの音が聞こえてくる。
「ただいま」
今度ははっきりとそう言って、リビングのドアを開けた。途端に目に飛び込んでくるのは、散らかりまくった部屋。
テーブルの上に広がった食べかけのお菓子や、飲みかけのジュース。床の上に積まれた雑誌や漫画。畳まれていない洗濯物。そしてその中のソファーに座り込んで、スマホに夢中になっている妹の梨央。
「おい、なんだよこれ。掃除と洗濯物畳むのは、梨央の仕事だろ」
俺の声に梨央は答えない。俺はテーブルの上にあったリモコンでテレビを消して、もう一度言う。
「おいっ、梨央。聞いてるのか?」
梨央は面倒くさそうに首を動かしてから、舌打ちをした。
「うるさいな、聞いてるよ。あとでやる」
「あとでやるっていつだよ」
「あとはあと! あたし出かけるの!」
梨央がスマホを持ったまま立ち上がる。
「出かけるってこれからか? 夕飯は?」
「いらない」
「いらない時は早めに言えって言っただろ」
「だから言ってるじゃん、いま」
梨央が俺を押しのけて、リビングから出て行く。わざとらしい足音が聞こえてから、バタンと大きな音を立てて玄関のドアが閉まる。
「……なんなんだよ」
俺はスーパーの袋をどさりと床に置き、そのまま力が抜けたように座り込んだ。
「なんなんだよ。いい加減にしろよ」
今日の夕飯は、梨央の好きなハンバーグを作ってやろうと思っていたのに。特売で安かったひき肉を、たくさん買ってきたのに。
急にやる気がなくなって、ぼんやりと散らかった部屋を見回す。何気なく目に映ったのは、もう誰も使っていないピアノ。埃をかぶったそれは、どこか寂しげに、こちらを見ているように思えた。
*
吹奏楽部の練習が一通り終わったあと、俺は部室の上の階にある音楽室に籠った。
ここは吹奏楽部が使う部屋ではないが、なんとなくひとりになりたい時とか、勝手に使わせてもらっている。
四階のこの部屋の窓からは、広いグラウンドが見渡せた。県大会の準決勝で負けた野球部が、何事もなかったかのようにまた練習をしている。
俺はトランペットを吹こうとして、やっぱりやめた。
『私もう……トランペット吹けません』
そう言ったあの子の言葉がずっと頭にこびりついていて、胸の奥がざわつく。
俺はトランペットを机の上に置くと、部屋の隅にあるグランドピアノのそばに立った。
「ピアノか……」
もう何年も手を触れていないそれに、指を伸ばす。蓋をひらいて、白い鍵盤を指先で押してみる。何も音のなかった音楽室に、一滴の音が落ちてきた。
「彰ちゃんの弾くピアノはやさしいね」
ピアノ講師だった母は笑みを浮かべて、まだ小学生だった俺にそう言った。
「そうかな?」
「そうよ。梨央ちゃんのピアノは力強いけど」
「どっちが上手いの?」
「どっちもお母さんは好きよ」
母の影響で俺も妹もピアノを弾いていたが、母は無理やり俺たちに何かを教えようとはしなかった。
ただ好きな曲を好きなように弾かせてくれて、時々曲に合わせて勝手に作った歌を口ずさんだりしていた。
飽きっぽい妹がピアノから離れても、母が引き止めることはなかった。
「梨央ちゃんは梨央ちゃんの、好きなことをやればいいのよ」
梨央は男友達と一緒に、外でボールを蹴っているほうが楽しかったみたいだ。だけど俺は、母とふたりでピアノを弾いたり、歌ったりするのが好きだった。
――好きだったんだ。
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