赤い花

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赤い花

 午後の陽は傾きかけていた。  風が吹いて、黄金色に染まりはじめた稲穂が、一斉に、ざあっと揺れる。  ふいに曜子は歩を止めて、その場にうずくまった。 「彼岸花」  一体、どうやって秋の訪れを知るのだろう。道の脇には、真っ赤な彼岸花が咲き、連なっている。いつの間にか地面からしゅるりと茎を伸ばし、蕾をつけ、燃えるような花を咲かすのだ。  今年も、この花が咲く季節が来た。  胸の奥がちりちりと焼けるように痛い。いつ頃からだろう、曜子は、彼岸花の赤を見ると、かきむしられるような焦燥感を覚えてるようになっていた。  ゆっくりと立ち上がり、ふたたび、歩き出す。  ここは、のんびりした田舎町だ。今は、澄んだ秋の青空の下、実り始めた稲穂の輝きと、目の覚めるような彼岸花の赤のコントラストが鮮やかだが、いったん日が暮れると、とっぷりと闇に浸かってしまう。  免許を持たない曜子は、一時間に一本しか来ないバスに乗り、かかりつけの病院へ通っていた。そのあとスーパーで買い物をし、ふたたびバスで戻ってくる。今日は新鮮な秋刀魚が手に入った。夫の壮一郎の好物だ。  今日はとびきりいいことがあった。  バス停から自宅までは歩いて二十分ほど。体調はあまり良くないが、気持ちは軽かった。この町で農家を継いだ彼と結婚して5年。曜子は今年で三十、壮一郎は三十二。ようやっと義父母にいい報告ができる。  だが。やはり、壮一郎に、いの一番に伝えたい。  おめでとうございます、6週目に入ったところです、と医師は言った。ついに、子どもを授かったのだ。  おととし義弟夫婦に子どもが生まれ、皆が夢中になった。義父母も初孫にめろめろで、口に出さなかっただけで、孫を待ち望んでいたのだと曜子は悟った。  そして、自分も。壮一郎との子どもが、欲しい。そう強く思ったのだった。  それから病院へ通いはじめ、やっとのことで初めての妊娠にこぎつけた。とはいえまだ二か月目、油断はできない。曜子は口を引き結んだ。  道の向こうからかしましい子どもの群れが近づいてくる。曜子は目を細めた。学校帰りの子どもたち、じゃれ合いながら、大声でおしゃべりしながら、弾むように歩いてくるのだ。  私たちの子どもも、きっといつか……。  曜子はそっと自分のおなかに手をやった。そして、向かってくる小学生たちに、「こんにちは」とにこやかに告げた。  しかし、彼らは曜子のほうを一瞥もせず、ただ、風のように通りすぎていった。  曜子はため息をついた。無視された自分の「こんにちは」は宙ぶらりんになって行き場を失ってしまった。近頃の子どもは、こんなものなのだろうか。  子どもたちが去って行ったほうを振り返ると、集団のなかのひとりが、立ち止ってこちらを見ていた。ほほえんで会釈してみせると、その男の子の顔は凍りついたように強張り、見る見るうちに青ざめていく。  具合でも悪いのだろうか。駆け寄ろうとしたところで、子どもたちの会話が耳についた。 「なんで? なんでみんなには見えねーの?」 「だーかーらー、だれもいないじゃん。おかしなこと言ってないで、さっさと帰るぞ」  真っ青な顔してこちらを指差している男の子は、友人に腕をつかまれて、引きずられるようにして去っていった。 ――なにを言っているのだろう。  妙に引っかかる。だが、それ以上深く考えるのをやめ、曜子は帰路を急いだ。はやく壮一郎さんに会いたい。会って、伝えたい。  舗装された道の脇に連なる彼岸花。その先に、かがみこんだ丸い背中が見える。  また、あの人が来ている。  あの一角に、じっとしゃがみこんでいる姿を、しばしば見かける。いつも同じ場所だ。 五十代半ばぐらいだろうか、頭には白いものが混じり、遠目から見ても、その背中には疲労の色がにじみ出ている。  めまいを覚えて、曜子はふらついた。この場所に近づくと、いつもこうなる。  胸の奥が熱を持つ。じりじりと焦げるように熱い。  似ている。似ている。似ている。あの人は――。  突然、背中に強い衝撃を感じた。激しい痛みに耐えられず、曜子は意識を手放した。  曜子はバスを降りた。田んぼに囲まれた、細い道を歩く。  秋の陽は少しずつ傾きはじめている。  赤い花が燃えている。  ゆらゆらと揺らめく蝋燭の炎、この道をずっと行けば壮一郎さんと暮らす我が家へとつく。その筈なのに、曜子は、道がどこまでも終わりなく続くような、そんな錯覚にとらわれてしまう。  幼い頃、父の運転する車で、真夜中の高速道路を走った。連なる照明に時折現れるトンネル、どこまでも続く道。永遠に、目的地には着かないのではないかと思った。終わらない世界へ迷い込んだ自分たちは、そのことに気づかないまま、ずっとずっと走り続ける。  そんなことを考えていたのを、ふと思い出す。  苦笑して、ゆっくりと首を横に振った。どうも情緒不安定でよくない。これも、ホルモンバランスの変化の影響なのだろうか。  立ち止まって、ゆっくりとおなかをさする。信じられない、ここに、小さな命が芽吹いて、その心臓は、たしかにことことと動いているのだ。  はやく、壮一郎さんに。  妊娠を告げたらば、彼はどんな顔をするだろう。一瞬、ぽかんと口を開けて、そしてすぐに破顔するのだ。きっとそうだ。少し目じりの下がった人懐こそうな顔に、満面の笑みが浮かんで、そして……。感極まって、泣くかもしれない。少しだけ、泣くかもしれない。  想像すると、自然と笑みが漏れる。  ふと、道の先に、かがみこんでいる丸い背中が見えた。  またあの人だ。よくここで見かける。一体何をしているのだろう。あそこに何があるのだろう、それが、無性に気になる。  と、突然、くらりと視界が回った。いけない、倒れる。赤ちゃんがいるのに。小さな小さな赤ちゃんが、いるのに。  また、あの痛みが来る。 ――また?  その時、男性が立ち上がってこちらを見た。歪んでいく視界の隅で、曜子はそのすがたを捉えた。  背の高い、やや猫背だけど、スマートな立ち姿。少し目じりの下がった人のよさそうな顔、髪には白いものが混じり、肌艶もなく、皺が刻まれているけれど、たしかに、そのひとは。 「壮一郎、さん」  つぶやいた瞬間に、曜子は背中に衝撃を受けた。  意識を失うそのときに、曜子は見た。赤い花を。赤い、血を。  バスを降りてふらふらと歩きはじめた。赤い血で染まる小道を。  否。血ではない。彼岸花の赤だ。まだ私は血を流してはいない、そう曜子は思いなおした。  何度も何度も自分はこの道を歩いている。春も夏も秋も冬も、晴れた日も雨の日も嵐の時でさえ。  あの場所でかがみこんでいる壮一郎に行きつく前に、彼が曜子に気づく前に、曜子は意識を手放していた。そして、気づけば、まるで時間が巻き戻ったかのように、ふたたびこの小道を歩いている。幾度となく繰り返してきた。  閉じ込められている。何より、閉じ込められていることに、気づきたくなかった。壮一郎があそこで何のために、誰のために、何をしているのか。考えないようにしてきた。 ――だけどあのひとは私を見た。  踏み出す足は震えていた。それでも、アスファルトの固い感触を、足裏の皮膚はしっかりと感じとっている。自分は、歩いている。  あの場所にさしかかった。今度は、彼はしゃがみこんではいない。曜子を待っている。その手には、野菊の花束。  近づいていいのだろうか。彼に触れたが最後、取り返しのつかないことになりはしまいか。  頭がくらくらする。足が鉛のように重く、彼のいる場所へと行くことを、自分の中の芯のような、核のようなものが、激しく拒絶している。  もうあんな痛い思いはしたくない。一瞬で視界は暗くなり、思考を奪われ、最後の瞬間がいつだったのかもわからない。壮一郎のことを、思い浮かべるいとまもなかった。  曜子はその場にくずおれた。胸が、締め付けられて、軋んで、痛い。 「曜子」  壮一郎が、曜子の名を呼ぶ。曜子のもとへ駆けてくる。  目の前に、手が差し伸べられる。畑仕事のせいで皮膚が厚く硬くなって、かさついていたけれど、たくましく温かかった、大きな手。あの頃と、ちっとも変わらない。  曜子は、すがるように、その手をとった。 「曜子。やっぱりここにいたのか。やっと会えた」  壮一郎は曜子を抱きしめた。 「ここに来ると、きみの残り香のようなもの、気配というんだろうか。感じるときがあって。だけど、いつもそれは一瞬で。消えてしまっていた」 「壮一郎、さん。今、いくつ?」 「五十二だ」 「……そう。もう、そんな歳になるの」  二十年も経つのだ。 ――私が。殺されてから。  忘れ去ることを諦めた途端、閉じ込めていた記憶は噴き出して、視界を赤く染めた。  あの日、バスを降りて。帰る途中で、いきなり後ろから誰かに刺された。誰なのかはわからない、恨みを買うようなことをした覚えもない。田畑に囲まれたのどかな町の、よく晴れた午後、まさか自分が。  秋だった。空は高く、赤い彼岸花がそこここに咲き乱れていた。 「曜子、曜子」  せつなく自分の名を呼び続ける、あの頃より低くかすれた、それでも変わらず愛おしい声。壮一郎は、二十年もの間、自分のために花を手向けてくれていたのだ。曜子が息絶えた、その場所で。祈りを捧げてくれていたのだ。  曜子は背中に熱を感じていた。燃えるようだ。かつての深い傷跡がひらいて、流れ出した血が、背に回された壮一郎の手のひらに触れた瞬間、真っ赤な花と変わり、咲いて、そして地に落ちていく。つぎつぎに。  伝えたいことがあった。どうしても、自分の口から。彼に、伝えたいことがあった。 「そう、いち、ろう、さん」 「……曜子」 「赤ちゃんがいたの。私の中に、赤ちゃんがいたの。私と、あなたの、」 「うん。……うん」  壮一郎が何度も何度もうなずいて、そうか、彼は知っていてくれていたのだと、曜子は安堵して、ふわりと、笑んだ。  そして曜子は、ふっと、秋の風に溶け込むように消えた。一瞬のことだった。  残された壮一郎のそばには、彼岸花が、地面からまっすぐに茎を伸ばし、赤い花を咲かせていた。     
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