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客は、私以外にいなかった。ちょうどお昼時だし、カフェで寛ぐにはまだ早いのだろう。
カウンターではなく、3つあるテーブルの、窓際の席に座った。前髪からぽたっぽたっと滴が垂れるが、ずぶ濡れというほどではない。
「何にします?」
突如カウンターの向こうから声をかけられ、思わずびくりと背筋を伸ばした。
「あ、えっと、コーヒーを……」
しどろもどろに答えると、初老の男性(おそらくオーナー)はにっこりと頷いた。
白いシャツに黒い蝶ネクタイ。まるでバーテンダーのような出で立ちのオーナーは、長い灰色の髪を後ろでひとつに束ねている。すごくお洒落な人だ。若い頃はさぞかしイケメンだったに違いない。
サイフォンの、アルコールランプで熱せられた丸いガラスのなかの水が、こぽこぽと沸騰する様子をぼんやり眺める。綺麗だ。透明な泡がいくつも躍っている。
やがて芳醇な薫りとともに、真っ白なカップに入ったコーヒーが、私の目の前に置かれた。
ひと口飲んだら涙が出てきた。
なんか、悔しかった。友達にすっぽかされた事は、単なるきっかけに過ぎなかったのかもしれない。こんな事これまでだっていくらでもあった。社会人になって、がむしゃらに頑張ってきて、自分の運は少し良くなったんじゃないかと──勘違いしてただけなんだ。
涙で滲んだ目を窓に向けた。雨足が強まってる。ちょうどいい。思いきり濡れて帰ろう。
お金を払い、ごちそうさまでしたと言って店を出ようとしたら、オーナーに呼び止められた。
「雨、まだ上がらないでしょう? この傘をお持ちください」
差し出されたのは真っ赤な傘。
「でも……」
「お気になさらず。うちにはたくさん傘がありますので」
ああ、もしかしてお客さんの忘れ物か。
私は軽くお辞儀をして店を出ると、その真っ赤な傘を開いた。灰色の街並みに、赤い色だけが鮮やかに咲いたみたいだった。
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