傘のこえ

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翌日。 雨は止み、空は昨日とは真逆の眩しい日差しが差し込んでいた。 梅雨の時期は、間違いなく晴れの日の良さをいつも以上に実感する事であろう。 雨というのは、いい事と思いやすくても、それが当たり前すぎて普段その良さを実感していない晴れの日の良さをあらためて気づかせてくれる役割も果たしているのだ。 何かの良さを心から実感する事は、それこそ『心を潤す』事に通じるのである。 私は晴れ渡った空のもと、街中を歩いていた。 街中の地面は、案の定まだ乾ききっていなく、辺り一面が濡れたままだった。 中には水たまりが残っている場所もあった。 田舎と比べて舗装されてる方である都会寄りの場所でも水たまりは普通に出来る。 それだけ雨による浸食力はすごいというわけなのだろう。 濡れたままの場所を基本に、時折見かける水たまりは、雨の足跡を晴れ渡った今も残し続けていた。 こういう都会寄りの場所は実感が薄いと思うが、こういう状態は、『雨によって大地が潤う』という事をひそかに伝えていると言っていいであろう。 そんな中、空が笑顔のように明るく晴れ渡っている晴天のもと、私はひそかにある声が聞こえていた。 それは… 雨の日にも聞こえていた『あの声』だった。 その声は、雨の日以上に聞こえているように私には思えた。 今もすぐ近くにいるかのように、その声が聞こえている。 私はふとある方向を向いた。 それは『あの声』が聞こえていた方だった。 …! 私の見た先には、今の天気から急に曇り空になるような光景があった。 そこにあったのは、その場に捨てられた傘だった。 しかもそれは一つではなく、無尽蔵に置かれているかのように至る所に捨てられていた。 その傘は生地の部分が破れ、傘の骨もおちょこを超越する規模で折れていて、もはや傘の面影は骨組みしかないほどのものだった。 それだけではない。 そういった傘の残骸が『まるで普通の事のように至る所に幅広く捨てられていた』のである。 中にはゴミ箱に突っ込むように捨てられているものもあるが、ほとんどがそこにさえ捨てないその場に捨てられたものだった。 これこそが、傘をその場で買う時に頻繁にある光景なのである… 安い傘は、本格的な傘と比べて耐久性が低く、強い風が吹いていれば普通にあっさり壊れてしまう事は一目瞭然な事である。 しかし、多くの人は、今の状態で差せば壊れる事が明白でありながらも、ダメもとで差して案の定の事になり、そうしてあっさりその場に捨てていってしまうのである。 嵐が過ぎ去った後もそれなりの爪痕があるが、雨の日が過ぎ去った後はそれ以上に、雨以外の爪痕がこのように残されているのである。 もちろん嵐の日もこういう光景はあるが、それが『嵐よりも普通に多くある』雨の日でも普通に起きているのを考えるとその爪痕の規模は尋常じゃないとわかるはずだ… その場に捨てられた傘は、スマートフォンを持っている人と同じくらい見かけない事がない規模でに広がっていた。 雨によって地面が濡れた場所だけでなく、水たまりがある場所でもそれを見かける時がある。 その様子は、まるで理不尽に壊され、その後あっさりその場に捨てられた傘の涙で濡れているように私には見えた… 傘が捨てられている雨に濡れた場所は、濡らしたものは雨水だが、それが傘の涙を間接的に伝えているように私には思えた。 空が泣き止んだ後、そこには別の泣き声と涙が地上に広がっている。 雨によって地上に広がるのは、雨によって濡れた場所や水たまりだけではない。 むしろ物理的広さはともかくとして、それ以上と言っていいほどに捨てられた傘が広がっているのだ。 傘を使い捨てどころか、わざわざ『捨てる事に通じるような使い方をしている』というのが、大量生産が当たり前になった今の世の中の投影なのだろうか… …というよりも、私が一番思うのは… そういった傘のありさまが『普通の事のように広く起きている』という事だった。 その場で傘を買う人は、そもそも『雨に濡れないように』傘を買っているのだろうか… 安く手に入るから、雨に濡れないようにするためよりも、無自覚な形で『最初から壊したり捨てるつもりで安い傘を購入している』のだろうか… 無残にもその場に捨てられた傘の残骸を背景に、私は雨上がりの街中を歩いていった。 そうした中、私の中では傘の泣き声が昨日以上に時折聞こえていた…
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