【相談内容】ぼくが助けるから

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【相談内容】ぼくが助けるから

 あたしは神守坂小学校六年二組の大石菜々美。陸上部の練習からの帰り道で、あたしはクロちゃんという一匹の野良ねこさんに出会った。  通学路の途中にある川沿いの公園に、その子はいた。真っ黒な毛並みの小さなねこさんはそれまで見かけたことがなかったし、ガリガリに痩せてもいた。  実はこの公園には何匹も野良ねこさんがいる。さくらの花びらみたいアルファベットのVの字に耳を切られている子も混じっている。  これは虐待じゃなくて、これ以上数が増えないようにって地域のねこさんを保護しようとする活動から、不妊手術をされた子たちだ。  だけどクロちゃんは捕獲して手術するにはまだ小さかった。生まれてからたぶん半年経っていないだろう。  お母さんねこさんも、兄弟ねこさんの姿もクロちゃんの周りにはいなかった。もちろん、首輪もしていない。  すごく痩せているから、たぶんあんまりごはんを食べていないんだと思う。大人のねこさんたちはなんとか工夫してごはんを食べている。  ボランティアさんからもらうエサにもクロちゃんはありつけてないんじゃないかと思った。野良ねこさんは警戒心が強いから、なかなか近づけない。  クロちゃんもそうだ。こちらに近づいてこないうえに、とてもすばしっこかった。あたしがちょっとでも近づこうものならさっと身をひるがえして逃げてしまう。  一度入ったら出てこられなくなるようなカゴ型の罠なしではクロちゃんを捕まえるのはむずかしい。でも罠だってクロちゃんを絶対に捕まえられる保証はどこにもない。  クロちゃんだけを捕まえるのなら仲良くなるのが一番いい。  そこであたしは、毎日帰りに公園へ寄って、クロちゃんにおやつをあげることにした。何回も、何回も空振りした。  それでもへこたれずにクロちゃんの元に通った。  ちょっとずつ、ちょっとずつ、クロちゃんとの距離が縮まった頃だ。声を掛けられた。 「すごいね、君。その子と仲良くなれたんだ」  って。  振り返ると普通のお兄さんが立っていた。すごくブサイクでも、イケメンでもない。身長も高くない。  だけど、低いわけでもない。痩せているのか、太っているのかと聞かれても普通。印象的なのは鼻の横に大きなほくろがあることだ。  そのほくろのお兄さん――たぶんでしかないけど、すごいおじさんでも高校生みたいに若くもない――は紙袋を持っていて、あたしの隣に座りながら「エサをあげに来たんだよ」と笑った。 「お兄さんがここのねこさんたちを見守ってくれてるの?」 「ん? あ、ああ。そうだよ。猫が大好きだからさ」  言いながら、お兄さんは紙袋からキャンプなんかで使う紙の器をいくつか取り出して、そこにカリカリのねこさんフードを山盛りにした。 「ねえ。ちょっと置くのを手伝ってくれる?」 「うん。いいよ」  お兄さんから紙の器を受け取って、あたしは公園のあちこちにエサを置いた。公園にいたねこさんたちがそろそろと動き出して、エサの器に近づいていく。 「ありがとうね。助かったよ。君の名前は?」  お兄さんの隣で一緒に座りながら、エサを食べるねこさんたちを見守るあたしは名前を聞かれて自分の名前を素直に答えた。 「そうか、菜々美ちゃんって言うんだね。それじゃあ菜々美ちゃん、よかったら明日も手伝ってもらえないかな?」 「うん、いいよ。手伝う」 「ありがとう。また明日ね」 「うん、またね」  その日から、ほくろのお兄さんとあたしは毎日公園で会うようになった。  お兄さんはあたしより先に来ていて、器の中にエサを用意してくれている。繰り返していくうちに、クロちゃんもあたしにすごくなつくようになっていた。  でもどうしてか、お兄さんにはなつかなかった。触ろうとすると威嚇する。エサを用意してくれているのはお兄さんなのに、あたしだけにしかクロちゃんは心を開かなかった。それが本当に不思議だった。  だけど、他にもおかしいなと思うことも起こっていた。お兄さんとエサをやるようになってから、いつも見かける野良ねこさんを見かけないようになったんだ。  一匹、また一匹って。さくら耳の子も含めて…… 「なんかさ。最近、ねこさんの数が減っている気がする」 「そうかなあ? もしかしたら、なわばりを変えてしまったのかもしれないよ?」 「うーん。それならいいんだけど」  明らかに公園のねこさんの数は減っている。だけど、お兄さんの言うこともわからなくはない。寒い冬の間中、川沿いの公園は他の場所に比べて寒さが厳しい。風を避けられる場所もあまりない。そうなると、もっと温かい場所へ移動した可能性はなくなはい。  そろそろかなと思った。クロちゃんはあたしによくなついている。体も初めて会ったときに比べたら、ずいぶんふっくらしている。  この子をねこねこふぁんたじあに連れて行けば、きっといい飼い主さんに出会えるに違いない。  そう思って、あたしはほくろのお兄さんに自分の考えを伝えた。 「え? そうなの? ぼくもさ、クロちゃんを飼ってくれそうな知り合いがいるんだよ。クロちゃんの話をしたらぜひ飼いたいって言ってくれたんだ。クロちゃんは菜々美ちゃんとすごく仲がいいからさ。菜々美ちゃんと一緒なら、安心してその人の家に行けると思ってたんだけど」 「え!? 本当!? わかった。菜々美、その人の家、おにいさんと一緒に行くね」 「本当かい? ありがとう。じゃあ、明日行こう。こういう話は早いほうがいいしね」 「え!? 明日!?」 「なにか用事があるの?」  明日の土曜日に用事があるわけじゃない。お母さんは仕事だし。 「ううん。大丈夫」 「そっか、よかった。ああ、でもぼくと出掛けることはお母さんにはないしょにしてくれる?」 「なんで?」 「保護先が決まってからのほうが菜々美ちゃんのお母さんも安心すると思うんだ。それに知らない人とは一緒に出掛けちゃいけないって言われたら、その人に会いに行けなくなっちゃうよ? クロちゃんのためにも早く保護してもらったほうがいいでしょう?」 「うん……そうだね。わかった。クロちゃんのためだもんね。お母さんには内緒にするよ」 「それじゃ決まり。明日の11時に、ここで待っているからね」  満面の笑みを浮かべるお兄さんと指切りをして、あたしは家へ帰った。 「ねえ、菜々美。あなた、第一公園の前を通るでしょ? 最近、猫の数が減っているみたいなんだけど、変な人を見かけたこととかない?」 「な、ないけど……なんで?」 「どうもね、猫が連れ去られているみたいなの。虐待目的っぽくて、この間も動画がネット上に公開されていたって話だし。あと、保健所にも連れて行かれてるみたいなの。さくら耳の子たちもよ? まったく、どこの誰のしわざかしら?」  お母さんは大きなため息を吐いた。 「とにかく、あそこの前を通るんだから菜々美も重々気をつけるのよ」 「う……ん」  なんだかすごく嫌な予感がした。  ほくろのお兄さんが現れるようになってから、ねこさんたちの数は絶対に減っている。虐待目的でねこさんたちにエサをやって仲良くなって連れ去っているのかもしれない。そうじゃなきゃ、クロちゃんがあんなに警戒する理由がないもの――  次の日、あたしは約束の時間よりも一時間早く公園に出かけた。お兄さんが来る前にクロちゃんを保護して、ねこねこふぁんたじあに連れて行こうと思って。  名前を呼ぶと、すぐにクロちゃんはあたしの前にやってきた。すぐに抱っこをしたたとき、声を掛けられた。 「あれ、菜々美ちゃん? ずいぶん早いねえ」  ほくろのお兄さんだった。 「どうしたの? まだ一時間もあるよ。そっか。先に来て、クロちゃんと待っていてくれたのか」  お兄さんがジャンパーのポケットからスマホを取り出した。時間を見て「まあ、いいか」とつぶやいた。 「少し早いけど、行こうか?」 「え、えっと。その話だけど、クロちゃんは別のところで保護してもらうから、菜々美は行きません」  途端にお兄さんの顔が曇る。それまで満面の笑顔だったのに、ひきつっている。 「どうして?」 「な、菜々美が会えなくなっちゃうのはさみしいから……です」  足が震えた。口もうまく動かない。 「そんなことないよ。お兄さんがいつだって連れていってあげるよ」  お兄さんがあたしの顔へと手を伸ばす。そのときだ。 「いたっ!」  お兄さんが素早く手を引っ込めた。片手で伸ばしていた手を覆う。 「フゥーッ!」  クロちゃんが怒っていた。威嚇をやめない。 「こいつ……ひっかきやがったな」  ブツブツ……お兄さんが低い声で言った。その瞬間、表情が一変した。  鬼とも悪魔とも思えるような怖い顔で、あたしからクロちゃんを引っ張りあげたのだ。 「優しくしてやっていればつけあがりやがって。よくも俺の手を引っ搔いたな、この害虫め!」  あたしが知っているお兄さんとはまるで別人だった。ギラギラした目でクロちゃんを睨みつけている。  それでも威嚇をやめないクロちゃんをその人は地面にたたきつけた。 「ギャンッ!」  クロちゃんの鳴き声が響く。あたしは息ができなくなった。全身に大きな震えが走った。  悪魔と化したその人の手で持ち上げられたクロちゃんの体はぐったりと力が抜けきってしまっている。 「おまえみたいな害虫はなあ。生きている価値ないんだよ! 人間様に盾ついたバカは苦しんで死ねばいい!」  ――やめて。やめて。やめて。やめて!  叫びたいのに声が出ない。口の中がカラカラに乾いている。全身が凍ったように動かない。  そんなあたしの目の前で、その人は動けないクロちゃんを思いっきり川に向かって放り投げた。  ボチャンッと音がして、水しぶきが上がる。  ――いやあああああっ!  気づいたときにはコートを脱ぎ捨てて、あたしは全速力で駆けだしていた。  そして躊躇せず、川へ飛び込んだ。ただクロちゃんを助けたくて。  真冬の川の水に飛び込んだあたしの体は残念なことに、一瞬で動かなくなった。冷たくて、冷たくて。  それでも必死にクロちゃんを探す。わからない。どこにいるのか。まったくわからない。 「クロちゃん……」  名前を呼んだあたしの口の中に大量の水が入ってくる。冷たい水が体に絡みついて、どんどんあたしを見えない暗闇へと引きずり込んでいく。  そんな不透明な水の中で、あの子の金色の目とあたしは一瞬目があった。気のせいかもしれない。だけど――  ――大丈夫だよ、ななちゃん。ぼくが助けるから。  薄れていく意識の中で、そう言ってくれた彼の優しい声をあたしは聞いたんだ、たしかに。
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