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05. 双子
金曜日の夜、悟は八時前に自宅に帰り着いた。
連日の残業で疲れ果てていたが、この週末は久々に出勤せずに済みそうだ。
製薬会社に勤める彼の今の仕事は、政府や各種機関との折衝である。
近年、記憶中枢を侵す脳障害が蔓延し始めていた。
生殖不全や遺伝子欠損、世界中で流行する新たな奇病はどれも対策が難航し、“記憶萎縮”への治療薬も未だ開発されていない。
彼の会社が作る新薬も、症状の進行を遅らせる効果しかなかった。
それでも薬の需要は高く、供給量と価格を巡って、果てのない交渉が続けられている。
キッチリと休める週末は、彼にはもう貴重な機会だった。
玄関で迎えてくれた妻へコートを渡した時、早い帰りに喜んだ娘が駆け寄って来る。
同じ服を着た二人の娘は、顔もそっくりだ。頭に揺れるリボンの色だけが違う。
「あ……」
「髪まで同じに括ると、区別がつかない? 赤いリボンがアイ、黄色いリボンがリサよ」
絶句する悟の顔を、妻が面白そうに覗き込む。
「アリサ……」
「え?」
表情を強張らせる彼に、妻も娘たちも黙って様子を窺った。
――俺の娘はアリサ。一人娘ではなかったか?
「ただいま」と娘に声を掛けると、ようやく双子は笑ってダイニングへ戻っていった。
晩御飯はパスタだよ、そんな報告をしてくれたのは、アイなのかリサなのか。
娘を追いかけて、妻は料理の支度をしに行く。その背中を眺めつつ、さんざっぱら読まされた記憶萎縮の症例を思い返す。
虫食いのように欠け落ちる記憶。時系列に関係なく、ポッカリと空く思い出の穴。
酷い例だと、いきなり配偶者を他人呼ばわりすることもあるそうだ。
一般的な記憶喪失と異なり、記憶萎縮は症状が悪化して行くため、定期的な通院と投薬が必須である。
老人の痴呆症に似ているものの、若年者でも罹患する上に進行スピードが早い。
記憶萎縮だとバレた場合、業務に支障が生じるために自宅待機を命じられるか、よくて閑職に回される。給与が減るのは避けられず、メリットは何も無い。
薬で症状を抑えながら、周囲を騙して切り抜けるのが最善か。抑制薬は入手困難だが、同じ会社の作る物、コネを使えば手に入れられるだろう。
服を着替え、食卓へ向かう悟は、今一度自分の罹患を疑ってみる。
――まだ確定したわけじゃない。この休日の間、様子を見てから結論を出そう。
ひょっとすると、パチパチとパズルのピースが嵌まるように、記憶が繋がるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、幼い二人を眺めながら、彼はミートソースのパスタを口に運んだ。
「おいしー!」と口を揃えて笑う双子は愛らしい。彼女たちが自分の子と確信できれば、もっと愛情を掻き立てられただろうに。
「試しに同じ格好をさせたんだけど、ここまで瓜二つとは思わなかったわ」
「うん……」
「あなたも驚いたでしょ」
全員の皿が空っぽになり、何か話そうと口を開きかけた瞬間、彼の携帯端末が呼び出し音を鳴らした。
蛇腹に畳まれたパネルを広げて、着信に応える。
「もしもし、どうかしましたか?」
パネルモニターには、相手の名前と発信場所が表示されており、会社からの連絡だというのは直ぐに分かった。
開発室長が、製造ラインの事故を伝える。予定されていた薬の生産量が、先の一ヶ月間、半減する可能性があると言う。
通話を終えた彼に、話を漏れ聞いていた妻が心配そうに尋ねた。
「今から会社に行くの?」
「いや、自宅から電話で済ますよ。ただ、あちこち相談しないといけないから……」
「分かったわ。コーヒー、入れとくわね」
妻に感謝を述べた悟は、薬を待つ相手へ、順に緊急の連絡を伝えていった。
至急、薬を必要とする医療施設も存在し、納入量を一律に減じてはトラブルになる。先方の事情を再確認して、要望をメモに取り、少ない薬の配分を慎重に検討した。
娘二人を寝かしつけた妻にも、先に寝るように言い、黙々と電話を掛けて回る。冷めたコーヒーを片手に、彼の仕事は深夜まで続いた。
午前二時にベッドに入った悟は、翌朝早く、妻に揺すって起こされる。
「寝かしておきたいんだけど、妹が来るから」
「ん……ああ、分かった。何の用事だい?」
「そりゃ、引き取りに来るのよ」
顔を洗い、休日用のトレーナーに着替えた頃、玄関のチャイムが鳴った。
「預かってくれて、ありがとうね!」
いつも快活な義理の妹を見て、彼もやっと合点が行く。彼女の娘、つまりは姪を我が家に預かっていたのだ。
双子の如く似た姉妹が産んだそれぞれの子供は、同じく生き写しのようだったと言うオチだった。
子供たちは、玄関先に止めた義妹の車へなだれ込む。彼女が動物園へ連れていってくれるそうだ。
「妹さんの子だったとはね」
「あらやだ、誰の子だと思ってたの? 久しぶりだったから、忘れてた?」
昨夜から様子がおかしかった夫の理由に納得したのか、妻はケラケラと笑った。
「しかしまあ、あそこまで似てるとはなあ。あのさ、怒らないで欲しいんだけど……」
「なに?」
「どっちのリボンが、アリサだったんだ?」
一瞬、曇った妻の顔は、すぐに能面のように凍りつく。
夫を凝視する彼女へ、運転席の妹から声が掛かった。
「じゃあ、行ってくるわね、アリサ姉さん。昨日はありがとう!」
いつまでも返事をしないアリサを、妹は不思議そうに眺めていた。
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