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02. 日常
木瀬真奈の朝は、コーヒーを淹れることから始まる。
朝食にはスクランブルエッグと簡単なサラダを用意して、ドリップ式のコーヒーがカップに注がれる頃には、夫の辰哉が二階の寝室から降りて来た。
「おはよ」
「ああ……」
彼の返事は、いつも素っ気ない。
大して会話も無いまま、夫は朝食を平らげて、コーヒーを片手に新聞を読み始めるのだ。
結婚して五年目くらいからこんな朝が日常となり、更に五年が経過した。
新婚の熱っぽさは失われたものの、変わらない日々も悪くないかと真奈は思う。
共働きしようにも、パートも耐えられない虚弱さで、子供も期待出来ない体質である。
その彼女の病院通いにも付き合い、自分の仕事もキッチリと熟す辰哉には、感謝こそすれ不満はなかった。
「……そろそろ行くよ」
「雨が降るらしいから、傘が要りそうよ」
「分かった」
コーヒーを飲み終わると、直ぐに彼は仕事へ向かう。玄関で靴を履き、マンションの三階から、曇り空の街へと出掛けていった。
口数は少なくても、彼女の言葉はちゃんと届いており、黒い雨傘を持つのは忘れていない。
こういう些細なことが、好ましく感じる。
通院日ではないので、その後は部屋の掃除や、近所付き合いで時間が潰れた。
他のマンション住民との交流は薄く、隣で独り暮らしをする老人に、余った食事を持って行くくらいだ。
老人は身寄りもないようで、やはりそれなりに寂しい生活をしているのだろう。真奈が料理を渡すと、涙を流さんばかりに喜ぶことがある。
この日の昼も、随分と嬉しそうだった。
自己満足かもしれないが、多少良いことをした晴れやかな気分で、夕方には買い物に出る。
晩御飯の食材を買い込み、焼き魚と味噌汁、根菜の煮付けにほうれん草の和え物の準備に取り掛かった。
純和風は、辰哉より老人の方が喜びそうだと苦笑いしつつ、彼の帰りを待つ。
七時過ぎ、特に遅くもならずに帰宅した彼を出迎えて、二人で夕食。静かな夜を過ごし、何に気を病むことなく一日が過ぎる。
身体は病弱でも、心の中は凪いだ平穏で満たされていた。
決まった時間に床に就け、変わらない朝を迎えられることが、どれほど幸せなことか。
朝の七時。
カーテンを開け、晴れ上がった朝日をダイニングに取り込む。
トーストと、二色のオレンジをブロック切りした盛り合わせ。
「おはよ」
「ああ……」
夫はコーヒーを飲み、身支度を整える。
「……そろそろ行くよ」
「雨が降るらしいから、傘が要りそうよ」
「分かった」
玄関で靴を履き、黒い傘を握ったところで、辰哉の動きが止まった。
完全なる静止。
上体を少し傾げた不自然な姿勢で、彼は固まったまま傘を見つめている。半開きの瞼は、それ以上開くことはなく、閉じもしない。
真奈はダイニングまで急いで引き返し、壁に掛かった受話器を取り上げると、震える指でコールボタンを押す。
三度の呼び出し音の後、繋がった相手へ緊急事態だと早口で訴えた。
「早く来て! また止まったの」
直ぐに行くから落ち着いて待て、と指示されるが、一処に留まれずに廊下をバタバタと往復する。
止まった夫と受話器の間を行きつ戻りつする彼女は、玄関のチャイムを聞いてドアへ飛び付いた。
開かれた扉から、年配の修理員が入ってくる。
「終わったら呼びますので、奥で待っててください」
「急いでね!」
「いつものデータ読み込み中のエラーでしょう。五分も掛かりませんよ」
大人しく真奈がダイニングへ戻るのを待って、男は玄関脇に設置されたコントロールボックスの側面を開けた。
予想通り、虚影データの投射処理がエラーを起こしているだけで、修復も再起動で済む。
ホロが外出するように見せかける処理は、多少挙動が不安定になるのだ。
ログチェックと、正常な起動を確かめると男は真奈を呼んだ。
次の投射は“辰哉”の帰宅時との説明に、彼女は不満を述べたものの、強行にゴネるようなことはしない。
どちらかと言えば、また日常を取り戻せたことに安堵を覚えたようだ。
御礼にと、いくらかの金を包んだ彼女が、皺だらけの手で押し付けてくる。
それを丁寧に断ると、彼は扉の外へ出た。
閉じたドアの斜め上には、透明プレートに黒文字で書かれた『木瀬真奈』の表札が在る。
七十二歳の彼女は、まだ三十代だった頃の思い出の中で生きていた。脳障害が進行した結果、四十歳以降の記憶は酷く怪しい。
ホロと暮らすこの生活が本当に幸せなのか、彼に判断するのは難しいし、答えを出す気も無かった。
平滑な金属製のドアを見て、暫く立ち止まっていた老いた彼も、何事も起きない生活へと戻るために踵を返す。
木瀬辰哉は、隣の部屋へと帰っていった。
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