最悪の再会

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最悪の再会

白い荷造り紐でまとめた段ボールを抱えて歩き出した。目指すは近くのスーパーの資源ゴミリサイクルボックス。 なんでこの市は資源ゴミが月一回なのか。前の市は週一回は資源ゴミの日があって小まめに出せたし、徒歩と自転車で生活が成り立つ便利な場所だった。前のアパートに自転車を忘れて引っ越して来たのは痛恨のミス。 国道沿いを段ボールを抱えて歩くのはかなり勇気が入る。途中にある中古車販売店の店員がのぼり旗を振りながら笑顔で、 「おはようございます」 挨拶をしてきたので、歩きながら会釈だけを返した。見込み客だと思われたのだろう。今はそれどころじゃない。引っ越しの後片付けが最優先。車を買うつもりはない。車は夫婦で一台でずっと遣り繰りしてきた。 3キロと少し歩くとスーパーが見えてきた。駐車場の近くで脇道からスーパーに向かう自転車の男性とすれ違う。 あれ?今のもしかして…。私は振り返らなかった。違う、きっと違う、違ってくれ。 「さな…じゃなくて樋口さん…だよね?」 背後から聞き覚えのある声。早奈英(さなえ)って言い掛けた?ファーストネームを途中までいいかけて言い直し、旧姓の樋口で呼び掛けられた。驚いて足が止まる。振り返ることをまだ躊躇っていると、自転車がキュルリ、キーっとブレーキ音を立てて戻ってくる。 段ボール越しに見えた姿はやっぱり彼だった。私は脈絡もなく、 「なんでここに自転車で?」 そう問い掛けた。 「泊まりに来てて、自転車借りてる」 「そうですか。自転車に乗ってるイメージなくて、バイクか車で…。」 「まあ、いつも車かバイクだし。それより大丈夫?その大荷物」 笑いを堪えるときの顔は変わってないな。昔を懐かしんでいる隙に、彼は自転車を降りて私の抱えている段ボールに手を伸ばす。 「大丈夫です、もうすぐですし」 駐車場の奥に資源ゴミ回収ボックスが見える。 「強がり変わんないね、半分持つよ」 肩に載せて土嚢でも抱えるように持っていた段ボールを彼にヒョイと取り上げられる。小脇に抱えているもう片方の段ボールだけになって、視界が広がった。 「すみません、ゆ…いや、片原さん。」 心の奥でつっかえていた彼の名前が出て来た。さっき声を聞いたときにすぐ思い出した。片原祐輝。私も連られてファーストネームで呼びそうになる。 片原さんは自転車のカゴに段ボールの束を入れて、自転車を押して私と一緒に歩き出す。 「元気だった?」 「ハイ。お陰さまで」 何がお陰さまなのかまったく分からない。緊張して上手く話せない。 「変わんないなぁ。そういう大人ウケする話し方。しっかりしてる子だなって初めて会ったときも思ったし…」 「大人ウケって。もう15年も経って私も大人というか、おばさんですよ?」 「早奈英がおばさん?それじゃ俺はおじいさん?」 笑いながら呼び方が早奈英に戻ってる。 「いや、祐輝さんと私が同年代になっただけで、おじいさんなんてとんでもない」 私も少し緊張がほぐれて片原さんよりも、昔みたく祐輝さんと呼んでみた。二人で資源ゴミ回収ボックスに段ボールを放り込んで、スーパーの入り口に向かう。 カゴを手に取ったときに片原さんは私の手元を見て呟いた。 「早奈英はやっぱり結婚したの?おめでとう」 さっきから左手に視線を感じていた。薬指の指輪を見つけた片原さんは、ほんの少しだけ声のトーンが落ちた。 「あのとき祐輝さんが背中を押してくれたお陰です、ありがとうございます」 無理に笑顔を作ってみたけれど、たぶん私は淋しそうな表情を隠しきれていない。 「背中押さなきゃ良かったかな、早奈英が奥さんか…」 遠くを見るような目で片原さんも無理に笑顔を作っている。片原さんがあのとき 「俺みたいなどうしようもない男といるよりちゃんと幸せになれ」 そう言ってくれたから、それでも…。気まずい空気を変えたい。いつも車移動の片原さんが自転車の理由は薄々察しがついている。片原さんはとにかくマメでモテる。私はわざと冷やかしてみた。 「何言ってるんですか。泊まりって今度はどんな素敵な彼女さんなんですか?」 「美穂と元サヤしただけだよ、もうこの年齢になると新しい出会いも難しいし」 出会いもないとかまた嘘ばかり…。それより、美穂さんか。私が一番聞きたくない名前だった。不動の本命。片原さんの悪い癖に目を瞑って受け入れてる人。あちこちの女性に幸せと不幸せをもたらし、天国と地獄を見せ続ける片原さん。 片原さんが地獄に落ちたら嘘つきとして、閻魔様に何度舌を抜かれるか分かったもんじゃない。遊び回ってフラフラして生涯独身主義。美穂さんは結婚なんて別に?縛られるなんてゴメンで男遊びもしたい、独立独歩のカッコいい女性、片原さんとは似た者同士。 私と片原さんの最後の修羅場をあのとき仲裁したのは美穂さんだった。 「ひたむきに一途に生きたいなら、まだ引き返せるんじゃない?私はもう手遅れだけど。泣かされてばかりが嫌なら自分も遊ぶしかないのに」 最後に部屋を出るとき傘を手渡してくれたのは美穂さんだった。祐輝さんは美穂さんの隣でうなだれていた。 「大丈夫です、小雨ですから」 そう言って、アパートの外廊下をフラフラ歩く私に、青いビニール傘を強引に押しつけた美穂さん。 「所詮私も祐輝も使い捨てのビニール傘なの。1つの傘を大事に使うタイプじゃない。1つの傘を使い続けるって誰かを深く信じることと同じ。誰も信じられない。自分しか信じないからあちこちよそ見をしてる」 泣き止んだ私の代わりに美穂さんが泣いていた。私は美穂さんのように開き直れないし、自分の人生を諦めたくなかった。そして、大人の二人から「まだ引き返せる」と遠回しに、恋人と言うには心もとない関係を馬鹿にされたような苛立ちを感じた。 身体の付き合いがないからそれがなんだっていうの?若い頃の私は物知らずで独りよがりで傲慢だった。そこに気持ちさえあればそれが全て、夢みたいな想いだけに溺れていた。 「傘なんて要りません」 怒りを蒸し返す代わりに私は美穂さんから押しつけられた傘を払いのけて、走り出した。 セーラー服の白い生地に雨粒が染みて下着の水色が透けていた。帰宅ラッシュの道をせかせか歩くサラリーマンが、不躾な視線を寄せてくる。吐き気がするほど気分が悪い。私は世の中のありとあらゆるものを跳ね返すように、音も立てずに静かに降り注ぐ小雨すら弾き返すように、全力で駆け抜けた。 心だけの想いこそ一番美しい。 私は美穂さんに負けてない。 他の誰かより祐輝さんを愛してる。 それは一生変わらない。 ちゃんと幸せになれ? 冗談じゃない。 情欲の対象の女より上だ。 私は誰よりも幸せ。 祐輝さんがいてくれるなら。 だけど彼はもういない。 心だけを求め合った彼は、 もうどこにもいない。 彼は想いより情欲を取った。 それが答えなら人生は最低だ。 走りながら心の叫びを力一杯ストライドに込めた。静かに降る雨のせいで溢れる涙が頬を伝っても誰にも気がつかれなかった。17歳のあの雨の日は最低の1日だった。 あの雨の日以来、私はビニール傘を絶対に使わなくなった。骨のしっかりした傘を常に持ち歩くようになった。折り畳み傘も用意して晴れの日も持ち歩いた。 失恋なんかに負けてなるものかと必死に生きてきた。私は両親のリストラという問題があったから高卒で就職を選ぶことにした。中学3年の春休み、進学校に合格を決めた後にタイミング最悪で親はリストラされた、二人揃って。 もう少し早くリストラが分かっていれば就職に強い商業や工業高校にしたのに。人生はやっぱり最低だ。 せっかく進学校に入ったのに、私たち氷河期世代の最後の方は、進学校なのに就職した子が少なからずいる。親のリストラ、親が経営する会社の倒産、破綻。不況の波の真っ只中。 進学校なのに進学出来ない、就職という現実から逃れられる場所がアルバイト先だった。学校ではアルバイトは手堅い郵便局のみ、他は不可というルールがあった。堅い職場で経済的に苦しい高校生を安心して任せられるという理由で。 郵便局のどこが堅いんだろう?私と片原さんは郵便局で出会ったのに。指導係で正社員の片原さんとは、あの雨の日以降も普通に仕事で話をしていた。もう、メールをしたり携帯で話をしたり、別の名前を駆使して手紙を送り合うことも、もちろん仕事以外で会うことなくなった。 まだあの頃の郵便は、住所さえ合っていれば名前はペンネームでも仮名でも送れた。そんな裏技を教えてくれたのも片原さんだった。片原さんは一人暮らしだから私が手紙を送るときは本名。でも、私の家は両親と弟がいる。家族に手紙を見られると不味い。 葉書や封書を女性名で送ってくる片原さん。女の子が選びそうな可愛い葉書や封筒に、仕事の時には絶対使わない丸文字で手紙を書いてくれた。親はもちろん女の子だと思うから疑わないし、葉書のときは流行り言葉を頑張って使って本物の女子高生が書いたように仕上げていた。 私はそんな小さな秘密が楽しくて、無理して「チョーうれしい」とか、「マジ感動した」とか、チョーやマジを使うには年齢的に無理がある手紙が好きだった。よく考えたら片原さんと私は18歳離れていて、私の両親と片原さんの方が年が近い。 33歳になった私の頭の中に15年前の記憶が甦る。51歳になった片原さんはダンディーというより、見た目だけはロマンスグレーの紳士だった。段ボールを抱えた恥ずかしい姿での再会は、色気のカケラもない。本当は買い物に来たはずなのに心が無駄にざわつく。 「よくこの辺りに来るから片付け落ち着くまで手伝うよ。嫌じゃなければ連絡先をさ…」 引っ越し屋の熊の段ボールを見て片原さんがスマホを差し出して来る。心が大きく揺れたそのとき、ポツリ。 小さな雨粒が私の頬に落ちてきた。ああ、また雨か。灰色の雲が風に流されてきた。私は迷いや未練を断ち切るために、肩掛けのバッグから折り畳み傘を取り出した。 「嫌じゃないからこそ連絡先は交換しません。私の気持ちはビニール傘なんかじゃありませんでした。この傘の柄の丸い所見えますか?」 片原さんはあの雨の日を思い出したようだ。私の折り畳み傘の柄の持ち手の先端を不思議そうに見てから、驚いて息を飲んだ。『樋口』と旧姓を書いたテープを貼ったこの傘は15年ずっと使っている。 「ずっとこの傘使ってるの?」 「あの日から15年ずっと使ってました。でも、名前のテープは帰ったら新しい苗字に直します。また会えてやっと気持ちに区切りがつきました」 「俺はいつも区切りがつけられなくて往生際悪いな。でも、もう無闇に話しかけたりしない。カッコつけてみるよ、さらば我が青春、なーんてな」 祐輝さん…。そう呼び掛けたい気持ちを堪えて私は、 「片原さんもどうかお幸せに」 そう言った後、深々とお辞儀をして雨の中国道に戻っていく。振り返りたい衝動を抑えながら、一歩一歩、ぴちゃんぴちゃんと雨の音を響かせる足音だけに耳を澄ませて、明日へ未来へとゆっくり歩き始めた。 「そっちこそ幸せにな、俺も折り畳み傘使ってみるよ」 たまらず振り返った私の前で降り始めた本降りの雨の中、あのときとは逆で今度は片原さんがずぶ濡れで手を振っていた。私は言葉を返せずに、傘の下から小さく手を振って泣かないように無理矢理笑顔を作った。 そして、また前を向いて歩き出した。片原さんはまた私に嘘をついた。きっとこれからも彼は、折り畳み傘も柄や骨組みがしっかりした傘を使わないと思う。ビニール傘をアパートの傘立て一杯に貯めて溢れさせてしまう人だから。赤、青、緑、白、ピンク、黄色。色んなビニール傘を無造作に傘立てに並べるように、彼は心に大勢の女性の思い出を詰め込み続けるのだろう。 3キロ少し歩いてもうすぐ家につく。路地の手前の一軒家にある欅の木の前で立ち止まる。私は女優にでもなりきったように呟いた。 「さらば我が青春じゃないわ、さらば我が初恋よ」 欅の花言葉のひとつは『幸運』だと思い出した。片原さん、いや祐輝さん。どうかこれからも幸せに。私は雨に濡れて緑が潤む欅の木に祈った。雨は心の中で流れる涙の音とシンクロするように、一層強く降り続けた。 そして、アパートにつくと真っ先に折り畳み傘の名前のテープを剥がした。白いビニールテープに、油性ペンで『浅谷』と慣れ親しんだ苗字を書いて傘の柄の先端に貼った。力が入りすぎてペンの先が潰れそうだった。私はもう『樋口早奈英』じゃなくて、『浅谷早奈英』なんだ。そう強く意識することで気持ちがしっかりしてきた。 このベージュと赤のチェックの折り畳み傘は修復不能に壊れるまで使い続けよう。骨が外れたら糸で傘の布地に縫い付けて、何度も何度も自分で直してきた。ビニール傘を好む片原さんへの当てつけのように、大切に大切に使ってきた。 私が折り畳み傘の旧姓を直し忘れていることに気がつかないほど、のんびりとした、穏やかで優しい同い年の夫とこれからも生きていく。 私にとって初恋とは何かと聞かれたらきっとこう答えるだろう。 愛しい反面教師。 年の差があると上手くいかない、マメでモテる男は危ない。色々な色のビニール傘を傘立てに貯める男は女の影が必ずある。学んだことは数知れない。 一心地ついたら中断した買い物に行こう。さっきとは違うスーパーまでは4キロもある。今度は柄のある大きな傘を差していこう。ビニール傘は今でも大嫌いだから。
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