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いつ時代でも、日本の夏は暑い。
夕になろうが熱気を孕む陽射しの下、メルレは黒髪をなびかせて駆け出す。
正確に言えば、一昨日から髪は濃紺に染め直されている。まさに現代っ子という髪色と名前でも、彼女は意外に古風な趣味をした女性だ。
「ほら、正ちゃん、急いで!」
「充分間に合うって。慌てんなよ」
「場所取りしないと、見られなくなるよ」
今時、こんな言葉遣いをするのは、彼女か“正ちゃん”こと巻河正之助くらいのものだろう。
天然記念物クラスのレア名を授かった正之助もまた、現代の風潮に馴染めないでいる古臭い青年だった。
久々に会社から呼び出されずに済んだ夏の土曜日、彼はメルレをデートに誘う。近場の海岸で、クリスマスを楽しむ予定だ。
既に三回目となるデートでも、二人は手を繋ぐのがやっと。
なにせ奥ゆかしい彼らのことであり、これでも急接近と言っていい。
派遣社員として春に彼女が会社に来た時、正之助は理想の女性を見つけたと喜んだ。
昔気質な彼をメルレが好ましく思うのは、当然の流れである。
時代劇中のプロポーズをなぞるような「ボクと付き合ってください」に、彼女は即答でオーケーを出した。
小走りを止めた彼女に追いつくと、正之助は怖ず怖ずとメルレの手を握ろうとする。
汗ばんだ自分に気づき、途中で引っ込みかけた彼の右手を、彼女がすかさずつかまえた。
「あっ、汗がひどいから……」
「気にしないよ、そんなの」
口調はさらりとしたものだが、彼女の頬も紅潮している。
決して暑さのせいではないであろう。
二人の住むアパートの、ちょうど中間地点にある駅で待ち合わせ、そこから海岸まで歩いて行くところだ。
同じように海へ向かう人の波で、街は年一番の賑わいを見せる。
綿菓子を持つ小さな女の子。
笹飾りを持って、ゆっくりと歩む老人夫婦。
かき氷を売る屋台からは、シャンシャンと鈴の音が鳴り響く。
ああ、クリスマスだなあと、楽しげなお祭りの雰囲気に、正之助たちの頬も緩んだ。
サマークリスマス、正式名称は盂蘭クリスマスイヴだったか。
盆の明けた八月末、日本中がクリスマスムードで一色に染まる。
毎月二十四日に来るクリスマスイヴの中でも、十二月の本クリスマスに次いで、八月の盂蘭は盛大だ。
「あれ食べようよ、正ちゃん」
「ん? ああ、クリスマス・スティックか」
屋台には既に結構な行列が出来ていたものの、二人はその最後尾に並ぶ。もちろん、お互いの指を絡めたまま。
手際の良いオッチャンのおかげで、さして待たされず、二本の串を手に入れられた。
串には三色の団子が挿してあり、甘い黒蜜がこぼれ落ちそうなくらいに掛かっている。
「えーっと、今年の吉方は北か」
屋台にあった貼り紙を確認して、二人は揃って北の山側へと向き直った。
謂われに従い、願掛けの一口目を齧る。
「どんなことをお願いした?」
「メルレこそ、何て?」
「……知らない」
都合が悪いことを聞くなと言わんばかりに、彼女は強引に話題を変えた。
「この団子の色、意味があるんだよ」
「どっかで聞いたな。えーっと、緑が……何だったっけ」
あやふやな記憶を探る正之助を、メルレが助けてやる。
「緑がモミの木、白が雪。ピンクが……」
「ピンクは何?」
「……ピンクがハート。愛情の象徴だって」
彼女の語尾は、喧噪に紛れてしまうほどの小声だ。
正之助まで顔を赤らめ、黙って団子をパクつきながら、また海へと歩き出した。
そんな二人の熱を冷ましてやるように、潮風が優しく駆け抜ける。
海岸に着いた彼らは、人混みを掻き分けつつ、空いた場所を探した。
しばらく砂浜を歩き、人が少なくなったところで、二人はペタリと腰を下ろす。
絶好の、とまではいかないが、程よく周囲を見渡せる浜の端。
小さくしゃがんだ二つの影法師が、寄り添って海を眺める。
夕日の頭は、すぐに水平線の下へと隠れるだろう。
人々が待つのは、その半時間後。
クリスマスフラワーが天上に咲く、その瞬間である。
大して会話も無い、長い三十分。
しかし、二人にはそれでも短く感じられる時間が過ぎ、沖合からヒュルヒュルと最初の打ち上げ音が届いた。
小さな光の球が、尾を引いて空高く昇ると、刹那の静寂を経て大輪の花が開く。
浜が歓声で満ちた。
そこからは息継ぐ暇も無く、七色の花火が夜空を埋め尽くしていく。
十分に亘る光の饗宴が終りに近づこうかという頃、一際大きな衝撃音が轟いた。
ビリビリと服まで揺らす震動に、正之助もメルレも、揃って思わず肩を竦める。
間髪置かず、視界に収まりきらない大きなピンクの光が丸く散った。
どこからともなく、賞賛の掛け声が上がる。
「メーリーッ!」
正之助の横顔を一瞥し、クスリと微笑んだメルレも、思いっ切り声を張り上げた。
「メーリー!」
返す言葉は決まっている。
彼も一緒になって、沖へと叫んだ。
「クリスマース!」
「ふふふ。メーリー!」
「クリスマースッ! あはははっ」
幸せな時間が心を沸き立たせ、二人は訳も無く顔を見合わせて笑い合う。
数発の締め花を以って、クリスマスフラワーの総計は百八となった。
人々は一斉に振り返り、山へと視線を移す。
三つ連なるクリスマス三山、その左の山肌に、まずは火が灯った。“メーリー”と巨大な火文字が現れ、皆は拍手で応える。
次に右端に“マス”、最後に中央、大きな×印で完成だ。
「メーリー!」
「メーリー、クリスマース!」
三山の送り火で、盂蘭クリスマスの興奮は最高潮に達した。
サンタの扮装をしたスタッフがあちこちに出没し、子供たちへ餅を配る。
地元の青年団が用意したらしいトナカイの玩具が浜に並べられ、そちらへ集まる子も多い。
バナナやキウイを胴体にした手作りの人形だ。
竹ヒゴが四本下に刺さり、これが脚。二本は上に、これが角。
背中に当たる部分には、小さなロウソクが立てられている。これに火を点け、沖へと送り出す。
クリスマス流し、海沿いの街ならではの風習だろう。
この後、深夜には盂蘭ハロウィンのイベントが開催されるが、正之助たちにそこまで居残るつもりは無い。
ただ、すぐに帰ってしまうのも寂しく、二人は申し合わせたように浜から離れ、わざと遠回りに駅へ向かった。
「楽しかったね。あっという間だったけど……」
「来月のクリスマスも、一緒に行こう。シルバークリスマス、休みを取るからさ」
「うん!」
暗くて顔が見づらくても、彼女が喜んだのは声色で伝わる。
正之助は、思い切って彼女の肩に腕を回した。
二人の口数が、まためっきりと減る。
沈黙を破ったのは、前を指差したメルレだった。
「あれ、何だろ」
「イルミネーション……。何かの店かな」
光に誘われる蛾の如く、彼らは点滅する電飾へと足を進める。
近くまで寄ると、それは店ではなく小さな洋館――古い煉瓦造りの家の前庭だった。
庭には一本の針葉樹が立つ。二人はその高い木の傍から、てっぺんを見上げた。
「何の木だろ」
「私、絵本で見たよ。これが確か――」
「モミの木さ」
背後から老いた女性の声が掛かり、二人は振り向く。
「すみません。光が綺麗だったもので、つい庭へ……」
「構わないよ。飾りは見てもらってこそ、だからね」
「電飾に、何か意味はあるのですか?」
正之助の素朴な質問に、老婦人の片眉が跳ね上がった。
今の若いのは、そんなことも知らないのか――嘆息混じりの前置きに続いて、婦人はモミの木の由来を語り始める。
モミは常緑樹で、聖樹ともされる神聖な木だ。
三角形の樹形は、三位一体の象徴ともされた。
「サンミイッタイ?」
「私も詳しくは知らんよ。信仰の対象となる、大事な三つのことだとか」
あっ、と小さな声を上げ、メルレが正之助の肘をつつく。
「あれのことじゃない? クリスマス・スティックの……」
「なるほど、大事な三つ、か」
その際の会話を思い出し、二人はまた気恥ずかしくなりかけたが、婦人は構わず話を続けた。
「最近じゃ、由来も知らずにクリスマスを祝ってる。モミの木も、貴重品のせいかすっかり見なくなった」
「仰っしゃる通り、実物を見るのは初めてです」
「ほう。お前さんは、若者にしちゃあ、立派な言葉遣いじゃな」
礼儀正しい正之助に感心した婦人は、しばらく待っていろと二人に告げ、家の中へ戻っていった。
電飾に照らされるモミの木は、言われてみれば神々しくも感じる。
彼らが大人しく木を眺めていると、婦人は五分と経たずに帰ってきた。
「どうだい、本当のクリスマスツリーは?」
「綺麗ですね」
「そうじゃろ。ほれ」
差し出された小さな袋を、正之助は訝しげに受け取る。
婦人は燭台とキャンドルも持ってきており、木から少し離して台を奥と、時代物のマッチで火を点した。
「本物のクリスマスを、三人で祝おうじゃないか。構わんじゃろ?」
「本物、ですか」
「メリークリスマス」
「メリー? メーリーじゃなくて?」
「本来はメリーじゃよ」
正之助とメルレが、声を合わせて「メリークリスマス!」と返す。
婦人は我が意を得たりと破顔し、袋から小さなクリスマスフラワーを取り出すと、キャンドルを使って点火してみせた。
「綺麗!」
今日、何度も繰り返した言葉が、メルレの口をつく。
実に美しい。
正之助たちも見様見真似で、フラワーを握り、はかなげな火花を楽しむ。
線香花火、と言うらしい。
かけがえのない思い出を作る彼らを、ツリーの上で風に揺れる吹き流しが祝福する。
光で飾られたそれは、鯉のぼりと呼ぶと教えられた。
夜の空を揺蕩う鯉は、正之助に微笑むかのように尾を揺らす。
いや、多分、本当に笑っていた。
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