茜色の果てに「さよなら」を

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「なあ、神野原。勉強ってなんの意味があるんだろうなあ」 僕はその質問が妙に親しく思えて頬が綻んでしまった。 「お前はどう思うんだ?」僕は趣向を変えて彼に聞き返してみた。 ほんのちょっぴりの期待を込めて。 「俺? うーん……。わかんねえよそんなの」 だろうね。と僕は心の中で嗤った。彼に重ねてみる虚像が、急に具体性を増して現れる。どこまでもどうしようもない、可哀想なバカだった彼だ。 「でもよ。 俺は思うんだよなあ。 勉強しなくったって生きていけるってよ」 「そうなのかな」僕は人間社会に疎く、断言は避けたかった。 もちろん隠した心は雲の上で、誰からも見られない。 「あっでもさ、俺はそんなの嫌なんだよな」 僕は目の前で結ぶ像がぶれ始めるのに気がついた。 「嫌……って何が? どう? なぜ?」 「急に質問ぜめかよ」彼は困ったように笑った。 そして続ける。二つの像は乖離し、徐々にその輪郭を鮮明にしてゆく。 「俺は今自由を探してるんだよ」 「自由ね……」 自由とは人間の発明品だ。ただ誰もその全貌を知らない。今も雲の上に確かに存在する神話と同じように。 「本当の自由なんて誰にもわかんねーんだよな。だから俺は色々試すことにしたんだよ。まず学校をサボるところから始めたよ」 「君は、実はすごいやつなのかもな」僕は冗談でもお世辞でもなくそう思った。 「いいや、何にもすごくねーよ。俺はまだ何者でもない」 「偉人にでもなりたいのか?」 僕は「何者でもない」という言葉が酷く喉につっかえた。うまく飲み込めない。その意図を汲み取って、咀嚼して理解して、嚥下できない。 「偉人なんて大したもんじゃねえよ。俺はただ。『物語』に出てくる『彼』という存在で終わりたくないんだ」 「君には親からもらった立派な名前があるだろう」 『彼』は僕の言葉を聞いて片方の口角だけを上げて見せた。多分それは僕のことを少しだけからかったんだろう。 「名前なんて記号にすぎないだろ。そこに本質って呼ばれるようなものは何も詰まっちゃいないんだろうよ」 「君は空っぽだってのか?」 「お前はどう思う?」 彼は寂しそうな、助けを求めるような目をして僕に問いかける。  答えに迷う。けれど彼の瞳が求めているものは、僕の中にはない。そう思うと気が楽になって答えもスラスラと出てきた。 「まあ多分、現状の君はスカスカだよ」 「そう! そうなんだよ! 学校をサボって自由になった気でいても、どこか空虚なんだ。何かが物足りないんだ。いったい全体何が足りないのかはわかんないんだよ! けど実際に『何かが足りない』っていう欠如の感覚だけはある!」 「君は本当に、想像以上のやつだよ」 僕は真底そう思った。今僕は、物凄いやつと対峙しているのかもしれない。そう思うと気分が昂った。まるで、歴史の授業で習った、なんとかという人間の話を聞いた時のようだ。
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