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見慣れない天井にまだ夢でも見ているのかと目を閉じて、間近に響く鳥の鳴き声に降り続いていた雨は止んでいることがわかった。
目を開くと木目のきれいな天井がとても高く感じて、ここが借りている部屋だと思い出す。
雨樋の隙間から入り込む光に、もう朝がきたのかと眠気が引かない体を無理やり動かした。
着なれていない七宝柄の浴衣を、蓋を開けていた葛籠の中に放り込む。
今日から手伝う蓬林庵での仕事には、晴彦おじさんから何を着てもいいと言われていたし、たいして着飾るような服も持ってきていない。
昨晩寝る前にハンガーへ掛けておいたノーカラーシャツの上に、蓬林庵の主である南雲家の家紋が染め抜いてある法被を羽織った。
寝ていた布団は波折りに畳んで、薄手の掛け布団をその上に重ねる。部屋の隅へ移動させると、障子戸の向こうでがたがたと音をたてて、雨樋を開けているのがわかった。
白い障子を透かして光って入り込む朝日に、だんだんと目が覚める。
戸を引くと縁側の端に、晴彦おじさんが雨樋を片付けているところだった。
「起きてたか、夜はよく眠れたか?」
「おはようございます、はい。あのあとすぐに寝付けたので大丈夫です」
最後の一枚を片付けながら伯父さんは苦笑いをする。
「それならよかったよ、裕希が起きてこれなかったら彩乃に文句を言われるところだったな」
伯父さんが心配していたのは昨晩行った晩酌のことだろう。
俺が酒を飲める年齢になってから、一緒に食事をするは初めてのことだった。懐かしい昔の話を祖父が語り始めて、それが合図となり長い夜の始まりだった。
日付が変わったことにも気付かなかった男三人は、先日張り替えたばかりだという畳の緑が、転げた酒瓶から溢れる透明な水を吸い込んでいくさまを見て我に返る。
同時に慌てふためく三人が騒ぐ部屋へ、彩乃が勢いよく襖を開けて情景を見るやいなや、怒りの言葉を浴びせてきた。
宴会はその場で解散となり、後始末を早々に済ませる。
あらかじめ用意してもらっていた布団へ入ったかと思うと意識は遠退き、気付けば朝がきていた。
「俺は大丈夫です、なんだかすみません」
久しぶりに会う親戚にいきなり迷惑を掛けたと心配だったが、晴彦おじさんは気にしていないようで、昨夜の酒などまったく残っていない風な顔色だった。
昔から祖父が酒に強いのは知っていたから、伯父さんも同じなのだろうと思う。
「たまにはああいうのもいいものさ。それより着替えは済ませたみたいだから、飯にする前に顔を洗ってこい」
「わかりました」
伯父さんは俺の肩を軽く叩いて、台所へ通じる廊下へ向かう。
「なかなか似合ってるじゃないか。あと水しか出ないからな」
普段着なれない法被に違和感を感じていた俺だったが、褒められたことに若干照れくさくなって、急いで手洗い場へ向かった。
住居側の内縁には、途中石でできた広い手洗い場があり、朝は全員そこで顔を洗う。銅製の蛇口をひねると冷たい水が手の甲で跳ね返った。
両手を合わせて水を手のひらに溜める。夏でも朝の水は冷たい。
伯父さんが水しか出ないと言っていたのを思いだし、手洗い場の横に用意してあったタオルを引っ張り出した。
「そういえば、昔からそうだったな」
幼い頃のことだ、雪の降る季節に蓬林庵を訪れた俺は吐く息が白いことに喜んで、いつもより神秘的に見えた蛇口から流れる水に指先をつける。その凍るような冷たさに驚いて
、顔をつけることが怖いと言って駄々をこねていたのだった。
酔い醒ましだと朝食のあとに出された青緑色の飲み物を飲んだせいで、口の中がざらざらと苦さを残したまま、俺は蓬林庵の表玄関を土間箒で掃いていた。
今日から営業を再開する蓬林庵だが、梅雨の時期がおおむね休みの期間であるようだ。
昔は季節関係なく営業していたが、家族だけでまわしていくにはやはり大変なのだろう。比較的予約の少ない時期を休みにしたようだった。
普段ならもう梅雨が明けて夏らしい陽射しが差し込む頃だ。
山に近いこの場所は暑さをしのげる格好の居場所なのだが、今年は未だに雨雲が去ろうとしない。
いつ明けるかわからない雨模様に、祖父が例年より遅い営業再開の合図を出したのは最近だった。
俺に仕事のやり方などを大まかに教えてくれたのは彩乃で、全員が別々の内容をこなしている。
一番簡単な仕事をやらせてもらっていることはわかっているし、なにしろバイト代がかかっている。急ぎつつも丁寧に取り組むことを心がけた。
数日前に大きな掃除を行ったと聞いていたから、俺が本腰をいれる必要はないが、手を抜く必要もなかった。
二階へ通じる窓のない階段を、電気をつけて上がる。
蓬林庵は客間が大きく三つに別れていて、二階に通じる階段はこのひとつしかない。
客室の一つである〝藤〟は一番広くて二階を全て陣取っている座敷で、部屋の名前である藤の花を描いた屏風が、一番広く中央に位置する場所に置かれている。
二階からは中庭と外庭の両方が見下ろせて、蓬林庵では一番人気の部屋だった。
他に〝桔梗〟という部屋が一階にある。
藤の真下に位置していて、表玄関から左へ進むと一番近い居場所にあった。
メインの座敷は蓬林庵の外庭を正面から見ることのできる唯一の部屋だ。
中庭に比べて木の種類が多く、祖父が気に入っている庭園が季節ごとに違う風景を見せる。今は祖母が育てていた紫陽花がそろそろ見頃を終える頃だった。
三つ目の〝桜〟と言う部屋は、座敷自体の大きさも三番目とそう広くない全面畳張りの部屋だ。
蓬林庵の一番奥に位置していて、部屋の名前と同じ桜の木が見える庭がある。
この部屋から見える庭は桔梗の座敷から眺める庭園とは似ても似つかない、ただ桜の木が一本あるだけの庭だった。
部屋自体が特別豪華な作りをしている内装でもないし、人気がある座敷とは思えない。
しかし常連の客で必ず桜の座敷を予約する人がいるのだと聞いた。
そういえばかなり昔、母と蓬林庵を訪れたときに借りた部屋からぐるりと桜の座敷へ回り込み、その庭の縁側に俺は一人で座っていた記憶がある。
そのとき部屋に泊まっていた客が幼い俺を見て、同じように隣へ座ると何かを話し始めるのだ。
何を話していたのか覚えていないし、今思えば雪も降っていた時季で寒くはなかったのかと思い返す。
すぐに母が姿の見えない俺を探しにきて、隣にいた客に謝る姿を思い出した。
今日の予約は桔梗の座敷に一人と、桜の座敷に一人だと聞いた。
しかも桜の座敷を予約したのが、晴彦おじさんから聞いたいつも桜の座敷を予約するその常連客だという。
こんな田舎に、しかも桜が咲いている時期でもなく、ただ泊まるためだけにしては値の張る宿を贔屓にする客は、相当変わっているのでないかと俺は勝手に勘ぐっていた。
「ここにいたか、ほら飯だ」
二階から順に作業を終わらせて、彩乃に渡されたメモの内容をこなしながら、最後に桜の座敷を片付けているときだ。伯父さんが年季のはいった漆塗りのお盆を持って、急須と湯呑みのセットに黒い海苔がまるごと巻かれたおにぎりを二つ盛った盆をよこした。
「すみません、もう少しでここも終わります」
左腕につけていた時計に目をやれば、昼時が過ぎる頃だった。
「急ぐことはない、今日の客は夕方にくるんだ、最初はゆっくりでいいさ。それより本番は彩乃がいなくなる来週からだ」
「それを聞くと本当に俺で大丈夫なのか不安になりますよ」
祖母が入院してから伯父さんが蓬林庵の手伝いをしていると聞いていたが、どうやらそろそろ宿の後を継ぐ準備をしているようで、本職であった町での仕事を先月で終えていたらしい。昨晩の宴会ではそのことを何回も繰り返し話していて、未練があるようだと俺は思っている。
同時に彩乃も今は宿を手伝うことができているが、来週からお盆明けまで蓬林庵を手伝えないというのだ。
どうやら非常勤の仕事が立て込んでいて、抜けられないと言う話だった。
俺が夏休みに蓬林庵でのバイトへ駆り出されたのは、この事が大きな理由だった。
「そんなに気後れしなくてもなんとかなるから心配するな」
バイト経験は高校のときに近所のスーパーでレジをしていたくらいしかない俺は、のんきそうに笑う伯父さんを横目に苦笑いをするしかできない。
「食べ終わったら流しに出しておいてくれ」
盆を指差して伯父さんは部屋を出ていき、軽快に歩く音が床板をきしませて遠退いていく。
俺は受け取ったおにぎりを頬張りながら、縁側に腰を掛けて急須のお茶を湯呑みに注いだ。
空は灰色の雲が覆っていたが、雨が降る気配はない。
ぬるい風に揺れる葉桜と、奥に見える梅雨の空をぼんやりと眺めながら、熱いお茶を啜り飲んだ。
玄関から草履を持ち込んで、桜の座敷から外に投げる。それを履きながら庭へ出ると、庭の隅に大きな黒い物体が風で揺れているのが見えた。
近づいてみると、やけに大きなビニールが竹垣に引っ掛かっている。もともとここに置いてあったわけでもなさそうだった。
濡れていて、それなりの大きさのあるこれを、宿の中に持っていくのは気が引けるし、このままにしておくわけにもいかない。
俺は庭を回り込んで自分の部屋の方へ行き、裏口の横にある物置小屋の隅に黒いビニールを移動させた。
あとで祖父か伯父さんにどうするか聞いてみることにして、ビニールが飛ばないように近くにあった使っている様子のない漬け物石を上に置いておく。
するといきなり裏口の扉が開いて、ザルを持った彩乃が出てきて立ち止まった。
「裕希こんなとこで何してるのよ、びっくりするじゃない」
「悪い、庭にこんなのがあったから持ってきたんだ。なんだかわかるか?」
俺は黒いビニールの端をつまんでみせる。
「なになに、あーそれって農業用のビニールじゃない。また飛んできたのね。風が強いとたまにどこかの畑から飛んでくるのよね」
「そうなのか」
馴染みのないものに、どのようにこの黒いビニールを使うのか想像できない俺はつまんでいた手を離した。
「あとでお父さんに何とかしてもらうわ、そこに置いておけばいいわよ」
彩乃は物置小屋から、持っていたザルに野菜をいくつかのせる。おそらく今日のお客に出す夕食の支度をそろそろ始めるのだろう。
俺も自分の仕事に戻ろうと庭の方へ向かうが、数歩のところで彩乃に呼び止められた。
「裕希ちょっときてよ、ちょうどいいからお風呂見てきてちょうだい」
「風呂って?」
蓬林庵には源泉掛け流しの温泉がある。
石造りの見た目が豪勢な浴槽で、各部屋が時間ごとに貸しきりにすることができる。夜中の0時から翌日の掃除までは誰が入ってもいいようなきまりがあった。
常に温泉が出ている風呂に溢れるから止めろとでも言うのか、俺はぽかんその場に立ち尽くす。
「窓よ、まど!夜になると虫が入ってくるから、開いてたら閉めてきて」
返事も聞かず、ばたばたと彩乃は裏口へ戻っていくが、扉は開けたままだ。
俺はあとに続いて裏口から中へ入ると、そのまま蓬林庵の大浴場へ向かう。
案の定窓は開いていて、古びた錠を上向きに直して鍵を掛けた。
風呂場と脱衣徐の電気はつけたままにしておき、最初のお客用に備えておく。
俺は裏口に草履を脱いだままだったことを思い出し、大浴場を出て裏の方へ向かった。
正面の玄関を足早に通りすぎると、外から声が聞こえてきてふと足を止める。
玄関へ戻ろうとすると、扉を引きながら伯父さんが中へ入ってくるのが会話でわかった。
「予定よりだいぶ早くて申し訳ありません。先生は今日別で来ることになっていて、私だけ先に向かわせてもらったんです」
伯父さんよりも若い男の声で、それが今日の予約客のうちのどちらかなのだろうと予想できた。
俺は壁にくっついて様子を窺い、隠れるような形になってしまう。
「こちらは構いませんよ。昨日村山先生からお電話をいただいて、遅くなるようなら荒木さんだけでも先に夕食を用意してほしいとのことでしたので」
「そうでしたか。先生も最近忙しくしているようで、なかなかご一緒する機会がないものですから、今日は楽しみにしていたんですけど残念ですね」
二人が客室の方へ向かおうとしたとき、俺は急いで一番近い座敷に入って隠れる。廊下で立ち聞きしていたのは、少々後味が悪かった。
奥へ向かう後ろ姿を障子戸から少し頭を出して見てみると、スーツを着た背の高い男が伯父さんの後ろを歩いているのが見えた。
二人が桔梗の部屋の前を通りすぎたときに、俺はあることを忘れていたのを思い出す。
「やばい、昼飯食べたままだ」
俺は慌てて裏口へ駆け戻る。
つっかえながらも鼻緒に指を通して、自分の部屋を回り込んむ。桜の庭へ走り込むと、縁側には昼飯にと伯父さんが持ってきてくれた漆塗りのお盆に、急須と湯呑みがそのまま置いてあるのが見えた。
なんとかあのお客が来る前に片付けなければならないと、学生の頃に出た体育祭以来の全速力で走る。
「よしっ!」
俺は縁側へ着くや否や、急いでお盆に急須や皿を片付けた。
音をたてる食器を落とさないよう、盆を持ち上げて抱えるように更に持ちかえる。
「ああ、それは僕のではないんだね」
俺は桜の座敷へ目を向ける。
そこには先ほど伯父さんが案内していた、背が高くきれいに髪を整えた、薄いブラウンのスリーピースの背広を着こなす男が既に立っていた。
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