604人が本棚に入れています
本棚に追加
/57ページ
6
朝から降り始めた雨は、昼を過ぎても中庭の敷石を叩いてる。
今日も村上議員は朝食を済ませてすぐに町へと出掛けていったようで、同行する荒木さんの姿も同様に蓬林庵には見当たらない。
昨晩みつけた農業用のビニールは、晴彦おじさんが取り外してくれていて、俺は無人となった客間の掃除を任された。
午前中には終わらせて、午後からは伯父さんや彩乃と一緒に他の仕事をしてまわる。
夕刻には戻る予定の荒木さんと、今日から三日間の予約が入っている藤の客を待ちながら、少しの間休憩を貰った。
内縁の一番奥にある一人がけの椅子で一息つくことにして、深々と座る。
ガラス戸を流れる雨が、中庭の風景を歪ませて見せる。ただそれを見ているだけの休憩だ。
長い板敷きの廊下がきしむ音に振り返ると、まだ戻るには早い荒木さんの姿が、廊下の奥からこちらへ来るのが見えた。
出迎えようと、俺は慌てて立ち上がって向かう。
「休憩かい?」
最初から奥に俺がいるのがわかっていたのか、わざわざ桜の座敷を通り過ぎて声をかけてくれようだった。
「はい、少しだけ」
「それなら一緒にお茶でもどうだい?仕事が片付いたから予定より早いけど戻ってきたんだ」
そういって荒木さんは、そのまま奥にある丸いテーブルを挟んで並ぶ一人がけの椅子に腰かけて、向かい側の椅子を指でさす。
俺はそれに頷いて、さっきまで座っていた椅子に座り直した。
シワのない背広の前ボタンをはずして座る荒木さんと、黒のワンポイントTシャツに法被という格好の俺と、向かい合わせに座った二人が不釣り合いに感じた。
丸いテーブルにはヤカンで沸かしたお湯を足しておいたポットと、お茶のセットが置いてある。
荒木さんが茶筒を開けようとしたのを見て、俺は慌ててそれを奪い取った。
「俺がいれるので!」
まさかお客にいれてもらうなんてことを、お手伝いの俺でもあってはならないだろうと焦ってしまう。
荒木さんはしばらく呆気にとられたようだったが、すぐに笑ってそれを見ていた。
熱いお湯を取っ手のついた器に注いで、急須には茶葉を二人分いれる。
普段ペットボトルのお茶くらいしか飲まないのに、昨日祖父から緑茶の入れ方を聞いておいたのは正解だった。
ひらいた茶葉から香りがたって、均等に注いだ白い陶器の湯呑みを荒木さんの前に出した。
「ありがとう」
昨日の宴会でもそうだったが、やはり荒木さんにお礼を言われると照れくさい。それを隠すのに自分のお茶を啜るが、熱さで舌を火傷しそうになった。
荒木さんはお茶を飲みながら桔梗の花の話をしてくれた。
康二郎議員が足を悪くして蓬林庵へ通えなくなったあとは、息子である清一郎議員が毎年2月になると祖父に花を植えさせてほしいと頼みに来ているのだそうだ。
何年たっても首を横にばかり振る祖父だったが、村上議員を恨んでいる風でもないらしい。
しかし何年も蓬林庵へ通い続けることは、そう簡単なことではないだろう。
俺はそこまでする理由が何かあるのではないかと勝手に想像する。
いつもの厄介な妄想癖が大きく広がりそうになるが、荒木さんが優しそうな笑顔をそのままこちらに向けて話を続けた。
「蓬林庵はこの地域ですごく歴史のあるお家なんだよ。東町の皆は南雲さんに一目置いている。これをいうとあざといと思われるかもしれないけど、選挙にはそういう人との繋がりは強い方がいい」
少し苦笑いになった荒木さんだが、俺をまっすぐ見据える視線は変わらない。
「それに先生は、本当にあの座敷が気に入っているんだ」
そう微笑んで、これが恐らく本当の理由なんだろうと、俺は心の奥でそう思った。
真剣でありながら、そこから反らすことのできない優しい目をしていた。
表玄関の方から賑やかな声が聞こえてきて、ふと左腕の時計を見る。
少しだけのはずだった休憩が、少々長引いてしまったようだった。
藤の予約客が来たのだろう、伯父さんが迎えている様子が声で窺える。
「今日から予約のお客さんが来たみたいなので、俺そろそろ行きます」
立ち上がる俺と一緒に、荒木さんも椅子から腰をあげる。
並んで立つと、顔ひとつ分俺より背が高いことが改めてわかって自分が子供のように感じた。
「お茶、ごちそうさま」
そういってまた荒木さんはふんわりとした笑顔を俺に向ける。
「湯呑みはそこに置いておいてください、後で片付けるので」
そう言い残して俺が急ぎ足で玄関へ向かうと、伯父さんが荷物を持って案内するところだった。
祖父と挨拶を交わしていたのは仲の良さそうな老夫婦のお客で、懐かしい昔話に花を咲かせている。
「夕食の支度をするから手伝って」
一緒に出迎えていた彩乃が俺の脇をつついて、大きなザルを渡してきた。等の本人はステンレスのボールを抱えながら、裏口の方へと向かう。
「俺が手伝うことなんてあるの?」
料理などほとんどしたことのない俺が何をするのかと思いつつも、彩乃の後についていって起きっぱなしにしてある草履に指を通す。
落ちる雨に濡れないように、物置小屋まで急いで走った。
「荷物運びくらいはできるでしょ。とりあえずそこの野菜ひととおりザルにいれて」
指示された野菜の量は、けっこうな重さだった。
彩乃は漬け樽からいくつか漬け物を取り出してボールに移している。
「そういえば裕希、あんたあの人とずいぶん親しくなったみたいね」
「え、なに?」
取り出した漬け物は、水を張った別のボールで洗う。それをいくつか繰り返しながら、彩乃は普段と変わらぬ様子で聞いてきた。
「……だから、荒木さんと仲がいいみたいだねって」
俺はザルに移した野菜が落ちないように持ち上げて姿勢を整える。
「……別に、いろいろ話を聞かせてもらってるだけだよ」
先程休憩しているとき、荒木さんと二人で話をしていたのを見ていたのだろう、ふと玄関から中庭を通して見えるあの場所を思い出した。
「ふーん………」
下を向きながら作業する彩乃の表情は窺えない。
しかしなぜいきなりそんなことを言うのか気になって、野菜が落ちないように彩乃をのぞき見ようとした。
「なに、彩乃って荒木さんのこと気になってるの?」
年下の俺をいつまでも子供扱いする彩乃に、少し仕返しのつもりでふざけ半分に笑う。
すると嫌みを言われると思ったのに、顔を上げた彩乃は鼻で笑ってすぐに真顔に戻る。
「うっさい。っていうか荒木さん、男の人が好きなのよ」
「……………は、なに?」
彩乃が何を言っているのか整理するために一瞬黙る。すぐに俺をからかうために言ったのだろうと、顔をしかめて見せた。
「だから、男が好きなのよ。女は対象外なの、何回も言わせないでよね」
怒った風に言う彩乃だが、ため息混じりでどこか呆れたように俺を見る。
「………なんで彩乃がそんなことしってるんだよ?」
まだ信じきれない俺は、訝しそうに目を細める。
それを横目に彩乃は、移し終わった漬け樽をもとに戻してため息をついた。
「ずいぶん前の話だけど、私荒木さんに告白したことあるんだよね」
ぼとりとザルにのせたジャガイモが地面に落ちる。俺は慌ててそれを取ろうとするが、さらにザルから野菜が逃げていった。
「こんな田舎の宿に、あんなイケメンの常連なんてそう滅多にいないのよ」
「……そ、そうなんだ…………」
俺は従姉の衝撃的な過去を聞いてしまったのではないかと、内心焦って嫌な汗をかいた。
「まぁでもすぐに男が好きだからって断られたけどさ」
そういって俺を一瞥する。
荒木さんが贔屓にしている宿の娘を、どうにか納得させるためについた嘘なのではないかと言うと、彩乃にあっさり否定された。
落ちた野菜をまたザルにのせ直して、よろけながらも小屋を出る。
裏口まで走って中に入って、台所では祖父が先に夕食の支度を始めていた。
気まずく思っているのは俺だけのようで、ぽつんとその場に立ち尽くして次の指示を待った。
最初のコメントを投稿しよう!