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   大人数の宴会がない今日は、俺が蓬林庵の座敷に夕食を運ぶことはなかった。  晴彦おじさんが全ての部屋に対応していて、俺は下げてきた皿や料理に使った鍋を洗ったり拭いたりを繰り返している。  食器洗浄機という代物はこの古い宿には存在しない。  使っている食器も時代を感じさせるちょっとお高そうなものが多い。  スポンジでひとつひとつ丁寧に扱っているとい、いつのまにか時間が過ぎていった。  最後の料理を食べ終えたのだろう、藤の座敷から伯父さんがお盆に何枚もの皿や器をのせて台所へ持ってきた。  それを深さのある洗い場に出して、俺はまた一つずつ割らないようにと丁寧に洗う。  片付けをしている彩乃をちらりと覗き見しても、変わった様子はない。  小屋で聞いた話が頭から離れず、もやもやと落ち着かない俺は、危うく一枚小皿を落としそうになって冷や汗をかいた。 「どうした裕希、手伝おうか」  見かねた伯父さんが声をかけてくれて、洗った食器を片付けてくれる。 「すみません、ちょっと考え事をしてて」  そういって俺はまた気づかれないように彩乃の様子を窺うが、片付けが終わったのか台所から出ていったあとだった。 「気になることでもあったか?」 「…………いや、とくには」  一瞬ギクリとして、内心どう話すかなどと考えたが、そのまま手を動かして皿洗いに専念することにする。 「慣れない仕事だから大変だろう」  伯父さんは洗ってザルに移してある食器を拭いて、それが終わると俺がまだゆすいでいない泡のついた器を流してくれる。 「すぐ慣れるから二ヶ月頼んだぞ」 「がんばります」  笑いながら肘で小突かれて、俺は励まされているのに気づく。  母親の手伝いもほとんどしたことがなかったのに、伯父さんと並んで皿洗いなんてしていると、それがなんだか可笑しくて一人で笑い出した。  すると伯父さんも一緒になって笑い始める。 そこに祖父が台所へ戻ってきて「終わったかい」と声をかけられる。その一言に二人して慌てながら残りを片付けた。  夕飯は祖父が多めに作った煮付けで、甘口の銀ダラを一切れもらった。  皆それぞれまだやることが残っているのか、俺は台所の隣にある堀ごたつの座敷に一人で食べる。  結局その後も彩乃の姿は見当たらず、もやもやとすっきりしないまま自室へ戻った。  降っていた雨のにおいが、開けた窓から入り込む。  外に目をやって、左に回り込めば桜の木がある庭に行けるのに、なんてぼんやり考えたりしていると、草むらから夏虫の声が聞こえないことに気がついた。  まだ残る雨の気配にどこかへ隠れているのか、鳴き声がしない庭は静まり返っている。  真っ暗な藪には部屋からの明かりがもれて、よりいっそう夜の深さを浮き彫りにしていた。  俺はどうにも気になって庭をぐるりと回り、桜の木がある庭まで歩くことにした。  別に彩乃の言ったことを確かめるわけではない。  それが真実だからといって軽蔑することもないし、はなからそういった話をしに行こうとも思っていなかった。  ただなんとなく。  また話ができればそれでいい、ただそれだけで足は勝手に向かうのだ。  そもそも荒木さんが部屋の奥で休んでいたら、顔を合わせることもない。窓を開けているとも限らないし、庭に行ってみるだけのつもりだった。 「ーーーーーーーっ」  周囲を囲う竹垣までいくと、昨日と同じ格子柄の浴衣をきた荒木さんが縁側に腰かけていた。  佇むその姿をじっと見据えて、俺はその場に立ち尽くす。 「こんばんは、いらっしゃい」  それにすぐ気づいた荒木さんはにこりと笑い、また自分の隣を指差すのだ。 「今日は星が出ていなくて残念だね」  俺は荒木さんの右隣に座って、ただ短い返事をすることしかでずにいる。  急に二人でいることに緊張して、気恥ずかしくなった。 「荒木さんはっ、えっと………桜の部屋に泊まる理由があるっていってましたよね」  俺は頭をフル回転させて昨日の話を思い出し、唐突に話を始めた。 「その理由ってなんですか」 「大したことじゃないよ」  そんなことはないと、俺は身を乗り出して無理やり荒木さんに話をせがんだ。  昔の話だと前置きして、荒木さんは組んでいた足をほどく。 「僕の父は康二郎先生が地元に置いた事務所の秘書をしていてね、今は父が引退して、僕が清一郎先生のいる事務所をサポートをしているんだ。昔から康二郎先生と一緒に父がこの宿にお世話になっていてね、子供の僕もたまに連れてきてもらっていたことがあったんだよ」  荒木さんは時折俺の方を向いて、あのふんわりとした表情をする。それを間近で見ると胸の辺りが苦しくなった。 「僕が連れてきてもらったのは雪の降る季節ばかりでね、その時あの桜の木が見えるこの座敷ですごく素敵な思い出ができたんだ」 「素敵な思い出…………?」  俺は小さい頃に目の前の庭が一面白で覆われた風景を思い出す。  見慣れない雪にはしゃいで、自分の部屋から桜の木の下まで雪を転がしながら雪だるまを作ったこともあった。  それを気にして何度も桜の庭まで走ってきて、雪だるまが無事か確認するのだ。  何回目かの確認へいったときに、桜の座敷から縁側に出てきた客と遭遇したことがあった。  そういえばそのときの客も格子柄の浴衣を着ていたのを思い出して、やけに派手だったと思い返す。 「父も桔梗の花を植えるお願いを一緒にしていてね、何年も通っているのに許してくれないって、僕は部屋で父の落胆する顔をみて子供ながらに落ち込んだよ」  荒木さんは辛そうに苦々しく笑う。  自分の知る祖父がそんなにも頑固だったろうかと、あまり表情を変えない顔が頭に浮かんだ。 「そんなときにね、僕が拗ねて布団に入っていたら父は雪が降ってるのに外に出ていったんだ。それが急に不安になって、後ろからついていったら縁側に僕よりもずっと小さい子が座っていてね、父と話を始めたんだ。そしたらその子雪だるまを見張ってるっていってね」  俺は心臓が跳ね上がるのがわかって、荒木さんから目をそらすことができなくなった。  昔同じ場所で同じ格子柄の浴衣を着た大人の人は、今隣に座るすごく優しい顔をしたこの人によく似ていると、そう思った。 「その子はね、こう言ったんだよ」  子供のような純粋で綺麗なその笑みが、波打つ胸を一瞬でとめた。 『花ならもう咲いてるよ』  俺が言うのと同時に、荒木さんが同じ台詞を言って、目の前の優しい表情は驚いて目を見開く。  雪の降る季節、俺がまだ幼い頃。二月の半ばに家族で蓬林庵に遊びに来て、普段見ない雪が氷の粒だとは知らなかった。  俺はそこで木に咲く、白い花を見たのだ。
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