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 厚い雲のせいで初夏の陽射しはまだ遠く、桜の部屋に光が射し込むことはない。 部屋の中は影になっていて、縁側に立つ人の姿をより濃く馴染ませていた。  下から間近に見上げるその人は、薄いブラウンの背広を見事に着こなして、シワなどひとつも見当たらない。  淡い空色のネクタイを締めて、古い日本家屋を背後に不釣り合いな格好がよく似合っていた。  その場に立ち尽くすことしかできない俺を見るその瞳は穏やかな黒色で、その視線から一時も動くことができないでいた。 「裕希、そんなとこで何してる」  奥に続いている座敷から晴彦おじさんが顔をだして、庭で未だにお昼の盆を持ち抱えている俺に何かあったのかと声をかける。  張り詰めた糸が一瞬揺るんだように、俺は座敷の奥にいる伯父さんに視線を移す。 「すみません、俺これを片付けるの忘れてて、それで」  流しに出しておけと言われたことが頭に浮かび、慌てて頭を下げる。  盆の上を見れば、まだ飲みかけだった湯呑みのお茶がこぼれてしまっているのがわかった。 「仕方ないな、早く持っていけ」  伯父さんが怒っている様子はなく、裏口の方を指で差す。  冷や汗をかきながら頷いて、縁側の上で俺を見下ろす背広の男性に一礼する。 「そんなに気にすることじゃないさ、僕は着いて早々お茶のサービスが受けられるんじゃないかと喜んだくらいだよ」  男性がにこりと笑いかける仕草はとても自然で、また合う視線が今度は別の色に見えた。 「申し訳ないですね、荒木さん。裕希は今日から手伝いをしてくれてる甥っ子なんですよ」  二人の雰囲気が和やかなことに、俺は内心安堵する。 神経質なお客なら、テレビで見るような「経営者を呼べ!」などと怒鳴り散らすものを想像するが、どうやらそれはないようだ。 「へぇ甥っ子さん。学生かい?」  俺は戻るタイミングを見失って、質問に返事をして頷いた。 「夏休みの間だけ手伝いをお願いしたんですよ。裕希、この人は荒木尚和さんといって、うちの常連さんだ」 「常連だなんて恥ずかしいね、僕は先生の仕事で一緒にさせてもらっているだけなのに」  おそらくこのブラウンの背広を見事に着こなしている、荒木尚和という男性が桜の座敷を贔屓にしている常連なのだろうと察した。  いい値段のする、さして豪華でもない部屋を特別に利用したいと考えるお客は年配の金持ちで、変わり者の男だと勝手に決めつけていた自分を反省する。  想像とちがった常連の客風に、桜の部屋には荒木さんが興味をそそる何か特別なものでもあるのではないかと勝手に考え始める。  そうしているうちに、体の緊張が解けるのがわかって、強く抱え押さえたお盆から力を抜いた。  急いで走ったせいで草履と足の間には砂が入り込んでいる。ざらざらと足の裏を擦れて、それがやけに気になりはじめた。  ごぼれたお茶をのせたお盆をもって台所へ入ると、祖父と彩乃が今日のお客に出すのだろう食事の準備を進めていた。  中央にある大きなテーブルには鮮やかな柄の皿が、まだ何も盛られていない状態で並べられている。 「あら裕希、終わったの?」  彩乃は入ってきた俺に気づいてきて、野菜の下処理をしながら一瞥する。 「一応。あとこれ片付けるの忘れてた」  深さのある業務用に作られた流しへ、お盆から皿や湯呑みを移す。 「そこへ置いておいていいわ、あとでまとめて洗うから。おじいちゃん皮全部剥いたけど次は?」  煮込まれた鍋からは味噌の香りがたち、隣のコンロで祖父が「はいはい」と返事をしながら別の鍋に手をかける。  俺も昨日しったばかりだが、蓬林庵では祖父が全てのメニューを決めている。  味付けや盛り付けも祖父がやっているのだと聞いたときは驚いて、自分の母親よりも料理が上手いのではないかと思ったが、それを母に言う気は毛頭ない。  昔から泊まりに来ていたときは何気なく食べていたわけだが、それも全て祖父の用意したものだったのだろうと思い返した。  料理の支度を進めるふたりを眺めていると、伯父さんに肩を叩かれて、俺は驚きながら振り向いて頭を下げた。 「さっきはすみません。俺他のことに気がいっちゃってて」 「あ?ああ次は気を付ろよ、けど荒木さんはあれしきのこと、どうこう言う方じゃないさ」  一瞬何のことを言われたのかと伯父さんは首をかしげて見せたがすぐに思い出したようで、笑いながら俺の額を軽く指で小突く。 「それよりそんな気掛かりなことがあったのか?」  俺は庭の竹垣に黒いビニールを取りに行った話をすると、彩乃が話に割って入ってきて、代わりに説明をしだした。 「そうそう、また飛んできたみたいなんだよね。今物置のところにあるからあとでお父さんなんとかしてよ」  何かを炒め始めた彩乃はそう説明しながらよそ見をして、祖父に「危ないから」と注意をされると料理に戻る。 「夜中に飛んできたのか、風強かったしな。じゃあついでだからそれも裕希に頼もうか」 「ついでって?」  何を頼まれるのかと勝手に想像するが、何も思い浮かびはしない。 「明日から予約の入ってるお客用の浴衣をまだ取りに行ってないんだ。悪いが中町まで取りに行って欲しくてな」  町会議員の集まりだとかで、忙しくなると伯父さんはぼやく。 「行く途中にな、農家の西川さんっていう家の大きな蔵があるから、そこにその黒いビニールを持っていけばいい。覚えてるか?昔よく西川の爺さんに面倒見てもらったことがあったんだ」  俺が面倒見てもらうような年頃によく遊びに来ていたのは、10年以上前の話だろう。  蓬林庵から外に出て遊びに行くときは常に誰か付き添っていてくれたが、それが誰だったかまでは覚えていない。  迷子になって大きな騒ぎになったことがあったり、近くの田んぼに落ちて足がはまり、動けなくなったことがあるのだと聞いたことはあるが、それを話すと伯父さんは笑ってその当時のことを語り出した。  吹き零れる鍋の音に全員が驚いて、祖父に「話は長くなるのか」といわれると、晴彦おじさんは思い出したかのように言う。 「裕希、お前車運転できるよな?」 「……一応」  返事をしたが、免許を取ったのは半年前。それ以降運転をした回数は片手でたりる程度だった。  晴彦おじさんに借りた白い軽のワゴンには、後ろに荷物が積めるよな大きなスペースがあった。  そこに拾った農業用の黒いビニールをたたんで積んでおく。  預かった鍵でエンジンをかけ、クリーニング店の伝票が入った封筒を助手席に置いて発進する。  誰もいない田舎道を規定の速度で走り、道路の端には寄らないように気を付けた。  田んぼや畑の多いこの道に落ちでもしたら、助けがくるのは相当な時間がかかるだろう。  農家である西川さんの家にいくために蓬林庵から大きな道に出て、小高い丘を登る。  ゆるい丘を登る道を走ると竹林が続いて、その横をまっすぐに進む。  町までは車で10分ほどかかるが、昨日は最寄りの駅から宿まで歩いて30分はかかった。  蓬林庵のある東町には通称中町という中心街と、外町と呼ばれる町から離れた集落を指す地名として呼び分けをしているらしい。昔からの風習で、誰がそう決めたのかは祖父に聞いてもわからないという。  竹林を進むと古い瓦屋根の大きな蔵が見えてきて、それを囲むようにブロック塀の壁が長く続いていた。  西川さんには電話をしておいてくれると晴彦おじさんには言われたし、誰かいるのだろう留守の心配はしていない。  ブロック塀の途切れた場所に車を止めて外に出ると、中から人が出てくるのが見えた。  晴彦おじさんと同じくらいに見える年代の男性で、昔世話になったと言われた「西川の爺さん」でなないようだった。  その人は俺の名前を聞いて何か思い出したようで、伯父さんが笑いながら言っていた田んぼに落ちた話を同じようにし始めた。  恥ずかしい昔話を終わらせようと、俺は話を無理矢理逸らして、「西川の爺さん」のことを聞いてみる。  姿が見えないのは、近く始まる選挙のことで町まで出ているのだと聞いた。  車からビニールを出すと、西川のおじさんがすぐに引き受けてくれた。  お茶を飲んでいけと誘われたが、クリーニング店にお使いに行くのだと断ると、すぐに運転席へ乗り込む。  夕日が空を染めはじめて、虫の鳴く声がより一層増したように感じる。  教えてもらった目印を通りすぎると、すぐに目的のクリーニング店を見つけた。  料金は前もって払っていると聞いていて、引き換える際に必要な伝票を封筒から取り出す。  十着はあるであろう浴衣と帯のセットが入った袋をいくつか渡されて、二往復して車に乗せる。  薄暗くなった町を外灯が徐々に照らしていき、きた道を引き返す。  田んぼ道には人通りはなく、曇った空に月が隠れてだんだんと辺りは暗くなる。 竹林の横を通って西川さんの家から明かりが漏れているのを横目に見て、長い滞在先になる蓬林庵へ向かった。
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