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 桔梗の部屋を予約していた村上という客が蓬林庵に到着したのは、夜の九時を回った頃だった。  表玄関での話し声が、廊下を通して聞こえてくる。  お客の豪快に笑う声が届き、静まる宿が急に賑やかになったようだった。  夕飯と風呂を済ませた俺は、部屋に戻って朝片付けた布団を畳の上に敷き直す。  障子を開けると月が雲で遮覆われて、暗闇に部屋の明かりがもれ出した。  するとだんだんと虫がよってくるのがわかって、慌てて部屋の電気を消す。  伯父さんが置いていった渦巻形の線香に火をつけて、鴨居の下に移動させた。  気付けば賑やかな声は遠退いて、暗い庭から夏虫の声が響いて聞こえた。  蓬林庵の二階にある藤の花が咲く屏風の前で、宴会が始まったのは日が落ちる頃だった。  昨日遅くに到着した村上清一郎という人物が、この地区を地元にする議員だと聞いたのは、藤の座敷を宴会用に準備しているときだ。  村上議員は選挙が近くなると、毎回蓬林庵を利用するそうなのだが、今回も挨拶回りの一貫で、町議会の面々と話し合いの場を設けていたらしい。  町でその話し合いをするために、早朝から会議所まで出向いていたようだった。  町議会のメンバーは宿に到着すると先に入浴を済ませていて、全員が脱衣場に用意しておいた浴衣を着ていた。  村上議員と荒木さんだけが背広姿のままで、対照的な姿が印象に残る。  藤の座敷で料理を運んでいる最中は、宴会での会話が耳に否応なくはいる。  荒木さんの話題にると、俺は自然とそれに耳をかたむけて、何気ない顔をしながら料理を並べた。  そうやって合間に聞いた話で荒木さんについてわかったことは、村上議員の仕事をサポートするためにこの町へ来るときはいつも付き添っているらしいことだけだった。  上機嫌な村上議員に、町議会のメンバーが次々に酒を注ぎにいく。  その隣で俺は料理を運びながら空いた酒の瓶を片付ける。お膳から空いた皿を下げると、不意に腕をつかまれた。 「きみ地元の子かい?この宿に何年も通ってるけど、こんな若い子を見たのは初めてだよ」 「ああそうだね、私らも長くここにはお世話になっているけど知らない子だ」 「そういえば南雲さんには大学生の孫がいるって聞いていたけどその子じゃないかい」 「彩乃ちゃんがいただろ、晴彦にもう一人こどもがいたのか」 「そっちじゃない、嫁にいった妹の方だ」  捕まれた腕をそのままに、俺はその場に膝をついた。  話の置き去りにされて、その場から抜け出せずにいると、俺の横に荒木さんが同じ様に膝をついて、村上議員が掴んだ腕をほどいてくれる。 「彼は夏休みの間だけお手伝いをしているそうですよ、お仕事中なんですから先生もその変にしてやってください」  そういうと追加の酒を持ってくるようにと口実を与えてくれて、俺は座敷から出て階段を滑るように下りる。  手ぶらで台所に来た俺は、彩乃に文句を言われた。空いた皿を下げ忘れたことに、全く気づいていなかったのだ。 「次は忘れないで下げてきてよね。それにしてもよく飲むわねー、あのおじさんたち」  俺はテーブルに用意されていた次の料理を、広いお盆に移す。胸を締め付けるような感覚があって、大きく息をはいた。 「どうしたのよ、酔っぱらいの相手に疲れた?」 「ちょっとね」  祖父の言うとおりに盛り付けていた彩乃が顔色を伺ってきて、それを避けるために横を向く。  酒の追加があると伝言するのを忘れそうになって、慌てて祖父に伝えた。  料理を移したお盆を持って台所を出ようとした俺に祖父は「頼んだよ」と声をかけて、それに短く返事をする。  二回へ通じる階段を上って、一番下まで宴会の賑やかさが届いてくる。藤の座敷前まで来ると、それは一層増して祭りのようだった。 襖の前で晴彦おじさんに呼び止められて、かけた引き手から手を離す。 「一人でやらせて悪かったな、村上さんの部屋電気を消し忘れていたみたいで凄い虫が入ってたんだ。ーーーあとこれ」  配膳の合間に桔梗と桜の座敷へ布団を敷きにいっていた晴彦おじさんが、追加の伝言を聞いたのだろう、蓋の開いていない冷えた瓶ビールを数本お盆にのせてきていた。 「よかった、すごい勢いで飲むから」 「そうだろう、田舎は酒豪が多いんだ。まだ足りないかもな」 「え、まだ?」 「ああ、まだだ。どんどん運ぶぞ」 藤のお客である町議会の面々は、食事と入浴がセットになった予約だ。宿泊の予定はなく、寝具の準備は必要ない。けれどまだ宴会は中盤で先は長く、終わりは見えない。  襖の引き手に手をかけると、耳元で伯父さんに「がんばれ」とエールを送られる。彩乃が酔っぱらい相手に疲れたなどと、俺が小言を言ったと聞かされたのかもしれないと思うと少し恥ずかしくなった。  座敷は先程と変わらぬ賑やかな宴会が続いていた。  藤の花の下で祭りでもやっているかのように見える。  伯父さんとは反対側のテーブルに回って、空いた皿と入れ換えに出来立ての料理を並べた。一番端の席にいた荒木さんにも、同様に同じ料理を出した。  空になっている皿を下げると礼を言われて、なんだかそれが妙に照れくさい。  急に顔が熱くなって、それを隠すのに下を向いた。 「さっきはどうもありがとうございました」 「酔っぱらいの相手は大変だろう、気にしなくていいよ」  昨日と同じ穏やかな物腰に緊張して声がでない。  伯父さんが片付けた皿を持って、座敷を出ていくのが見えた。表情を悟られないように、俺は荒木さんへ会釈をする。そのまま慌ただしく、祭りのような藤の部屋から離れる伯父さんのあとを追った。  宴会が終わると町議会の面々は浴衣のまま、晴彦おじさんの送迎で町まで送り届けられた。  残ったメンバーで宴会の後片付けをして、全ての仕事が終わる。  俺が自分の部屋へ戻れたのは、日付が変わる少し前だった。  昨日と同じように渦巻形の線香をたく。  開けた窓のそばまで持っていって、早く寝ようと布団を敷いて横になった。  目を閉じてもなかなか寝ることができないでいると、今夜は雲の間に星が出ていることに気がついた。  昨日から雨樋をしないままにしてあって、むし暑い夜に夜風が開けた窓から流れ込む。  縁側に出て月を探すと、時折流れる雲の隙間に透けて見えた。  雲の動きは早く、明日雨が降るのだろうとため息をつく。  昨日と同じ夏虫の鳴き声に涼んでいると、聞きなれない音が混じりこんでいるのに気づく。  気になって月明かりを頼りに音のする方へ行ってみる。  ちょうど桜の庭を囲うようにたつ竹垣の一番端に何かが揺れているのが見えて、目を細目ながら近づく。  がさがさと音をたてて揺れる黒いものにある程度の検討がついて、それを手にとった。 「またかよ」  昨日引き取ってもらったばかりだというのに、大きさは小さいがまた同じような農業用の黒いビニールが引っ掛かっていた。  取り外そうと引っ張ってみるが、竹垣に絡んだビニールは簡単には外せない。  しばらく粘ってみたものの、いっこうに外せる気配はない。  変な風に絡まっているのか、力ずくで取ろうものなら竹垣まで壊しかねなかった。  朝になったら晴彦おじさんに話すことにして、引っ張ったビニールをまた竹垣に被せる。  荒い砂の庭を草履で歩く音に気がついて、俺は慌ててふり振り向いた。  一瞬血の気が引いて、誰もいないはずの庭にぼんやりと人影を見る。  背中に冷たい汗が流れて、足が地面に張り付いた。 「何かと思えばきみだったんだね、こんばんは」  聞き覚えのある声に、暗闇に慣れた目が近寄る姿をはっきりさせる。 「あら……き…さん?」  見知った顔に強張った体の力が一気抜けて、大きく息をはいた。 「驚かせてしまったかな?いきなり悪かったね」 「いえ、大丈夫です。でもなんでこんな夜中に?」  荒木さんは宴会ときとは違った浴衣姿で、雰囲気をがらりと変えていた。  格子柄の浴衣は荒木さん専用なのだと聞いていて、座敷の押し入れに準備したときは、こんな派手な柄が似合う人などいるのかと思ったが、それを見事に着こなしている。 「何か奥で音がするから見に来てみたんだ。そうしたら裕希くんがいて、何かあったのかい?」  竹垣に絡んだ黒いビニールをつまんで、俺はことの経緯を説明する。  昨日も同じように飛んできたビニールを片付けて、忘れていたお昼の後片付けをしようとしたのだと、余計な話までしてしまう。 「あの、昨日も今日もすみません……」 「裕希くんのせいじゃないさ、それに昨日は本当にお茶をいれてくれると思ったんだ。嫌みで言った訳じゃないよ」  片付け忘れたお盆を持ち抱えた自分を思い出して、急に恥ずかしくる。それを紛らわすために拳を強く握って背中に隠した。 「それはわかってます」 「今日も客である僕の部屋がある庭に飛んできたこれを取りに来てくれたんだろう、それなら謝ることないじゃないか」 「でも、うるさくして起こしてしまったみたいで」  俺は優しい言葉に何故かむきになって、荒木さんに食って掛かるように前に出る。 「ああ、その事ならきにしなくていい。眠れなくてちょうど星でも見ようかと庭に出ていたんだ。今日は少しばかり雲が薄くて、星が出ているのが見えたからね」  俺は少しあっけにとられて、しばらく荒木さんを見つめるような格好になった。それを無言で見つめ返している目の前の男の考えは読み取れない。 「星を見るなんて、結構ロマンチストなんですね」  俺は荒木さんの答えが予想と大きく違ったことに、思わず、頭に浮かんだ言葉が口からするりと出てしまう。  議員の付き人みたいなことをやっていてる大人がそんなことを言うとは微塵も思わなかった。 「ロマンチストなんて初めて言われたよ、裕希くんにはそう見えるのかな?」  荒木さんは驚いたように少し目を見開いて、すぐに吹き出しだして笑うと、片手で顔を覆った。 「すみません、なんか失礼なこといっちゃって」 「いやこちらこそすまない、初めて言われたものだから、なんだかおかしくて」  俺が慌てても、そんなことはお構いなしにくすくすと笑い続けるが、だんだんと落ち着いてきたようで、最後には大きな深呼吸をしてい息を整えていた。 「そういえば、裕希くんはこんな時間まで仕事なのかい?」 「いや、寝ようとしたんですけど、なかなか眠れなくて、外に出て星でも見よううかなって…………って、あっ」  自分の言葉を最後まで言ってようやく気がついたが、それももう遅い。  嫌みで言ったわけではないのに「ロマンチスト」なんてことを言った自分がとてつもなく恥ずかしくて、一瞬で顔が熱くなり、それ以上言葉がでなかった。  荒木さんの顔をちらりと見ると、先程とは違った純粋な子供のような笑顔がそこにはあって、なぜか俺はそれに動揺する。  荒木さんはいきなり俺の手を取ると、座敷の方へ歩き出した。 「えっと、あの…………?」  急な出来事に戸惑って、そのままついていく。  掴まれた腕がやけに熱く感じた。 「ロマンチストな僕は、きみをエスコートしないとね」  そういって縁側に腰かけると、荒木さんは自分の隣を指差してにこりと笑う。 「ほら、一緒座って星でも見よう」  今の俺に断ることなどできないし、そうする理由もなく、荒木さんの右隣に座って空を見上げた。
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