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星座の名前なんて知らないのに、夜空をただ眺めている時間が昔から好きだった。
荒木さんと縁側に並んで腰をかけて、流れる黒い雲の間から光る星を見る。
最初は気まずくてたいした会話もできずにいたが、荒木さんの話は面白くて興味が湧く。
だんだんと二人でいる時間に慣れていって、常連とお手伝いという妙な組み合わせも面白かった。
「あの、聞いてもいいですか」
俺は蓬林庵の手伝いをしている最中に、不思議に思っていたことを聞いてみることにする。
「どうぞ、答えられることなら何でも答えるよ」
そう快く返事をした荒木さんは、体を半分こちらに向けた。
「荒木さんは桜の座敷に何か思い入れとかあるんですか?」
「思い入れ?」
「なんていうか。伯父さんから聞いたんですけど、荒木さんは桜の座敷にしか泊まらないって、何か理由があるのかと思って」
「そうだね………僕にも理由があるけど、もっと大きな理由があるのは先生の方かな」
荒木さんは一瞬黙って、俺がその横顔を盗み見ると、儚い表情をこちらへ向ける。
「先生って村上さんのことですか?」
そうだと頷く荒木さんは少しためらった様子だったが、すぐに話し始めてくれた。
「昔桔梗の部屋から見える庭に、きれいな桔梗が咲いていたそうなんだけど、知ってたかい?」
俺は聞いたこともない話に驚いて、首を横にふった。
蓬林庵には花の名前が付けられた部屋が三つあったが、由来となる花が存在しているのは藤と桜だけだった。
桔梗の部屋には、その桔梗の花はどこにも存在しない。ない理由さえしらずにいたし、桔梗の部屋も花の名前が由来だったのだと今わかったほどだ。
静かに語る荒木さんの話は、なんだか幼い頃聞かされたおとぎ話を聞いているような感覚で、俺は黙ってそれに聞き入った。
桔梗の部屋は昔、村上議員の父親である村上康二郎が議員だったころによく利用していた。
その頃はまだ外庭に白い桔梗の花が咲くきれいな庭だった。
康二郎は地元である東町に高速道路を通したいと、常日頃から町議会に声をかけていた。
町を活性化させるためだと意気込んで、一方的に話を進めて候補地を何ヵ所か調べて回った。
若い町民たちの賛成意見に押されて最初はスムーズに話が進んで、反対意見の言葉に耳を貸すものはいなかった。
しかし最初の一年で話は白紙どころか、反対する団体に呑まれて不可能になる。
康二郎は土地の調査にまず害虫駆除を優先させた。
理由は調査する現場が林や草むらばかりで、最初に下見をしに行った役員がそれを嫌がったからだという。
候補の場所には薬が散布されることになり、当時はまだ濃度の高い薬品を使用することは法律で禁止されておらず、その効果は絶大だった。
数日のうちに虫はいなくなり、草を刈っていった。
最初に異変が起きたのは、薬品を散布した林の近くにあった田んぼだった。
田植えをして一カ月たった苗が変色しはじめて、他の田んぼも同じような状態になっていると農家が騒ぎ始めたのだ。
それが調査のためにまかれた薬が原因ではないかと言われ始めて、それによって康二郎は非難をあびた。
苗の色が変わった田んぼへ調査をする間、いつも利用していた蓬林庵に宿泊することにしていた康二郎は、その日桔梗の座敷で庭の異変に気がついた。
部屋の名前の由来となる桔梗の花が全て抜き取られていたのだ。
いつもなら時期的に桔梗の花は見頃のはずだった。
康二郎はなぜ花がないのか訪ねると、虫がついて全て駄目になったのだという。
その時は気付かなかったが、後に原因がわかったときに康二郎は愕然とした。
散布した薬のおこした生態系への影響は大きく、いきなりあちこちへ大量に薬をまいた結果、そこに生息していた虫が安全な場所へと移動する。そうすると民家の畑や庭に咲く植物は一瞬で虫の餌食なってしまうのだと聞いて、すぐに他の民家も調べることとなった。
その年の農作物は質の落ちたものであったり、そもそも育つ前に枯れてしまうものがほとんどだった。
早く進めたいと気が焦るばかりで、基本的な生体調査を怠っていた康二郎は地元からの大反発にあい、高速道路の話は無くなった。
康二郎は何年も町に謝罪をして回り続けて、ようやく落ち着いた頃に議員を辞めた。
数年後に後を継ぐようにして息子の清一郎が議員当選を果たし、地元の住民とは和解したようだった。
俺は知らない昔話を聞かされ回りが見えなくなった子供のように、荒木さんの話に食い付いていた。
しかし過去におきた東町の出来事が、そんなに大きい事件だったことに驚き唖然とする。
体は半分荒木さんの方へ向いて、片足だけあぐらをかくような格好になる。縁側に足をのせて座って、ただ呆然としていた。
「そんなこと、初めて聞きました」
「康二郎先生は議員を辞めたあと、蓬林庵にずっとあるお願いをしていたんだ」
「お願い?」
「また桔梗の花を植えさせてほしいってね。でも南雲さんはそれを断ったんだ」
俺が覚えている限りで、あの庭に桔梗が咲いている風景は記憶にない。
「どうして……?」
荒木さんは少し困ったように苦々しく笑った。
「許してくれなかったのかな、代わりに紫陽花を植えられてしまってね。それでも康二郎先生は毎年雪が降る季節に種をもってお願いをしにいっていたんだ」
「なんでそんな時期に?」
蓬林庵は山に近い場所に構えていて、冬になれば平地とは比べ物にならない雪が積もる場所だ。わざわざそんな時期に訪れる人はそういない。
「種まきが3月ごろから始められるから、その前に植えるお願いをしに行くんだそうだよ」
俺はそうなのかと頷くが、それがいつの話なのか、桔梗が植えられた様子はない。
諦めたのか、はたまた祖父がしびれを切らせたのか、俺がそれを聞こうと口を開きかけると、急に強い風が吹いて竹垣に引っ掛かっていたビニールがバタバタと音をたてた。
その音に俺たちは驚いて、同時に顔を見合わせて笑った。
「長い話に付き合わせちゃったね、もうこんな時間だ」
そういって荒木さんは立ち上がると、座敷の奥にある振り子の時計に目をやった。
「いや、俺が聞いたことだし」
それにつられて立ち上がると、寝巻きの浴衣姿に夜風が急に冷たく感じた。
「ロマンチックな話でなくて申し訳なかったかな」
「あっ……あれは……その」
やはり気にしていたのだろうか、荒木さんに「ロマンチスト」などと言ったことを後悔する。
「ごめんごめん、からかうつもりはなかったんだ」
慌てる俺を見てまたくすりと笑う。
そんな荒木さんを不快に思うことはなかった。
俺は若干その場に未練を残し、部屋に戻って敷いておいた布団に入る。
ふと暗闇に浮かぶ荒木さんの横顔を思いだして、また話の続きを聞こうと思い返す。
重たくなったまぶたを閉じて、そのままスマホのアラームがなるまで目が覚めることはなかった。
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