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「……おはよう、灯」
「あら、おはよう。朝ごはん出来てるわよ」
「え、今日は何? 魚の煮付け?」
「鯛のアクアパッツァよ」
テーブルに置かれた、大きな鯛丸々一尾が煮込まれている鉄鍋を見て戸惑う僕に対して、彼女――遠野灯は得意気に言った。
告白の返事から一年後。
僕たちは同じ大学に入学して、同じ部屋で暮らし始めたのだった。
同棲してから知ったが、彼女の趣味は料理らしい。そして同時に、なるほどとも思った。
僕の趣味である読書も然りだが、この体質だと朝の何の店も開いていない時間に暇ができることが多いため必然的に趣味もインドアなものになってしまうのだ。
だとしても。
起き抜けにアクアパッツァ。
僕の身体は鯛一尾を丸ごと受け入れる準備ができているだろうか。
「さあ」
そんなこと知るか、と言わんばかりに灯は笑った。
「召し上がれ」
「……いただきます」
愛でなんとかなれ、と僕は祈った。
「今日は何限?」
愛でなんとか鯛を平らげたは良いものの、暫く動けない状態の僕に灯は聞く。
「えっと、今日は2限と、4限があるな」
「そう。じゃあ今日は朝でお別れね」
大学は良い。授業の時間帯を各々選択できるからだ。
わざわざ自分は病気だと嘘をつく必要も、罪悪感もない。
大学の4限の終わり時間は4時。彼女はもう眠っている時間だ。
僕が4限がある日は少し、彼女は寂しそうに見えた。
「あのさ」
僕はふと思い立ち、灯に声をかける。
「昼休みとか空いてないか? 学食でご飯でも食べよう」
「ああごめんなさい。昼は予定があるの」
普通に断られた。本当にただただ寂しそうに見えただけらしい。なんか逆にこっちが少し寂しさを感じる。
「でも、ありがとね」
そう言って灯は微笑んだ。
それだけで。
僕は単純にも一瞬で立ち直るのだった。
「じゃあ私、1限だから行くわね」
8時。
そう言いながら灯は玄関に向かっていく。僕も見送りに玄関へ。
灯は少しヒールのあるサンダルを履いて「じゃあ」と言った。
そして僕に顔を寄せ、軽いキスをして、少し離れてからもう一度キスをした。
いってらっしゃいと、おやすみのキス。
これは僕たちが毎日続けている幸せな習慣だ。
「いってきます。また明日」
「いってらっしゃい。また明日」
チャイムの音と共に、2限の授業が終わった。僕はノートを急いで片付けて、教室を出る。
今朝、僕は一つ嘘をついた。
今日の僕の授業は2限までなのだ。
4限まで、と言ったのは、彼女が寝てから帰るための口実である。
今日は前々から考えていた作戦を実行するのだ。
大学を出て、自転車をいつもより強く踏んで向かったのは駅前のショップ街。ハイブランドから日用品まで全てが揃う規模のこのエリアには日頃からお世話になっている。
今日はその中で、まだ足を踏み入れたことのない店の扉を開けた。
いらっしゃいませ、という静かな声と共に出迎えてくれた光の数々。
人生で初めてのジュエリーショップで、居心地の悪さを振り切って、僕はスーツを綺麗に着た女性店員さんに声をかける。
「――婚約指輪が欲しいんですが」
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