灰色のささやき

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 その喫茶店は、涼しげな風とコーヒーの香りに満たされていた。  カウンターにはマスターの姿があり、やや白髪交じりだが、壮年というほど年は取ってなさそうな雰囲気だ。  店内には僕らを呼び止めた男性の他に、Tシャツ姿の男女4人の組と、主婦と思しき女性と小学生に満たなそうな男児と女児がいる。  男児の声が聞こえた。 「すごいあめだね」  彼の言った通り、雨の勢いは思った以上に激しかった。窓に棒状の水滴が次から次へとぶつかり、小さな滝となって流れ落ちている。もし、外に留まっていれば、服を着たまま冷たいシャワーを浴びたような目に遭っていただろう。  僕はスーツ姿の男性に言った。 『ありがとうございます。外にいれば今頃びしょ濡れでした』 「いやいや、礼には及ばないよ。ここで立ち話も何だしコーヒーでも飲んで行こう」  スーツ姿の男性はマスターに「レギュラー3人分」と囁いた。マスターも微笑み返すと、すぐに席へと案内してくれた。 「こ、この店…紙のメニュー表使ってるんだ!」 『今時珍しいね。普通…タブレット端末なのに』  しかもただの紙ではなく表紙が焦げ茶色の革に覆われている。 「ここの喫茶店は21世紀初頭の喫茶店をイメージしているらしいよ」 『食べ物が一番おいしかったと言われる時期ですね』  エブリはメニュー表ではなくカウンターを眺めていた。そこではマスターがガラス製の器具を使っていた。もしやあれはコーヒーサイフォンだろうか。 『もしかしてあれ…サイフォンですか?』 「よくご存じですね」 「どういうものなの?」  どうやらエブリはコーヒーサイフォンをはじめてみるらしい。僕はその機械を眺めながら答えた。 『蒸気圧を利用してコーヒーを淹れる機械さ』  エブリはヒーターに熱せられるサイフォンのフラスコを眺めていた。沸騰したお湯が筒を伝って、上部のコーヒーの入った漏斗に登っていく。  熱気に吸い上げられたお湯はコーヒーと交わって茶色に変わったが、下で熱せられているお湯は未だ透明のままだ。しかし、そのかさも徐々に少なくなっていく。 「ふしぎだね」  エブリの声ではなく、隣の席に座っている女児の声だった。サイフォンの中で起こっていることが不思議でしょうがないようだ。  そのつぶらな瞳がエブリに向いた。 「どーして、したのおみず…きれいなままなの?」 「それは沸騰しているからなんだよ」  エブリがにっこり笑って答えると、女の子は目を丸々と開いた。 「ふっとう?」 「ヒーターで熱せられて、ボコボコしてるでしょ…お水」  エブリが指さしたとき既にコーヒーは完成し、マスターはコーヒーカップに注ぎ込んでいた。 『まあ、確かに…不思議ですよね』 「そうですね」  3人分のコーヒーがテーブルに運ばれたとき、ドアに備え付けられた鈴が鳴った。この雨の中、傘一本で歩いてきたつわものがいたようだ。  その人物は傘立てにびしょ濡れになった傘を置くと、4人掛けの席に向かった。 「ご苦労さん、どうだった?」 「管理会社の連中…申し訳ありませんの一点張りで埒が明かねえ!」 「そうだったか…」 「はい、タオル」  入ってきた男は女性から赤いタオルを受け取ると、すぐに腕を拭き始めた。おや、よく見ると、環境保護団体が配っているタオルではないか。  僕はなるべく顔を合わせないように下を向くと、僕を喫茶店に案内した男性は持ったコーヒーカップを皿に戻した。 「それにしても彼女とのデートの最中に雨なんて…ついてなかったね」  否定しようと思って視線を上げると、先にエブリが反応した。 「全然、そんなんじゃないですから!」  そんなに力いっぱい否定されると傷つく。口にコーヒーを含むとほろ苦い大人の味がした。そういえば砂糖もミルクも入れていなかった。  ははは…という笑い声の直後、5人組の1人が声を荒げた。 「管理会社も軍も腐りきってやがる。何が抑止力だ。俺たちを脅してるだけじゃねーか!」 「ちょっとやめさないよ。他にお客さんがいるでしょ」  男は周囲を見回すと咳ばらいをし、コーヒーを口に含んだ。  隣に目をやると、エブリも視線を落としていた。私服とはいえ環境保護団体と鉢合わせたのは気まずいし、揉め事は起こしたくない。  その後も5人組からひそひそと話が聞こえてきた。何を話しているのだろう。次のデモの予定だろうか。それとも軍の悪口だろうか。ぼそぼそという感じの声が聞こえるたびに心の中が波打つ。まるで、僕自身が批判されているような錯覚さえ感じてしまう。  なるべく、5人組と目を合わせないように、僕らは誘ってくれた男性と世間話をした。芸能、スポーツ、政治、科学、僕やエブリは様々な話題を男性に振ったが、彼は何らかの反応を示している。これだけの話題を振れば関心のない分野も出てくるだろう。彼はいったい何者なのだろう。  雨も1時間以上降り続くと雨脚も弱まってきた。防災無線も響く。 【こちらは、シリウス管理センターです。 ただいま、室内冷却のため人工雨を降らせておりますが、冷却が進んだので午後4時をもって降雨作業を終了いたします。皆様には大変ご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます】  エブリを見ると安堵したように笑みを見せた。親子連れにも笑顔が戻ったが、環境保護団体の5人組だけはおもしろくなさそうだ。舌打ちが聞こえてきた。 「くそ…心にもない事をほざきやがって!」 「だからやめなさい」  3時45分ごろになると雨は小降りになっていた。5人組は席を立つと会計を済ませ足早に喫茶店を去っていく。彼らの後ろ姿を見送ると思わず肩を落とした。 「もしや貴方がたは…軍関係者では?」  ハッとして男性を見た。そうだ。目の前の人物が環境保護団体の関係者ということもあり得る。
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