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六日前(由芽)
『新しい王子様、派遣したんだけどどうだった?』
秋穂ちゃんからメッセージが入る。彼女は昨日の詳しい話は知らないようで、そんなことをわたしに聞いてきた。礼儀正しくて穏やかな原田くんは、新しい王子様だったのか……。その王子様は実は意外に肉食系だったとは言えないなぁ。
待ち合わせの時間が待ち遠しくて、時計ばかり気にしてしまう。メッセージの返事にあまり気を配れない。
『……ふたりには悪いけど、いきなりはちょっと』
『だよね……っていうか、彼はもしかして押せ押せだったの?』
秋穂ちゃんは鋭い。とても全部は話せないので、ざっとしたことを書いてお茶を濁した。あんなことがあったなんて、直接会ったときにでもとても言えない。
コンビニで約束する。
部屋で待っていても良かったんだけど、久しぶりの待ち合わせに心が弾む。
もう自分を好きではないかもしれない人でも、会えることがこんなにうれしいなんて……。忘れていたけれど、片思いってこんな気持ちだったかもしれない。
予定では今日が彼の出て行く日だった。それより早く出て行った彼が荷物を取りに来ることが、なぜかこんなにうれしい。
「由芽!」
久しぶりに間近で見る彼の額には、汗が光っていた。
「待たせた?」
と言った彼は両ひざに手をついて息を整えていた。走ってきたようだ。
「ううん、そんなに待ってないよ。急がなくてもよかったのに」
「思ってたよりうち出るのうっかり遅くなって、ごめん」
短い距離を肩を並べて歩く。手が触れあってしまい、彼が躊躇いがちにこっそり、軽く握ってくれる。そんな小さなことで喜ぶわたしの頭は一体どうなっちゃってるんだろう。
「勝手に持っていくのかと思ってた」
「そんなことしないよ」
穏やかに彼は話す。元々はのんびりした人だ。
「……新しいとこには慣れた?」
そんなことを聞くのはなかなかいやらしいなぁと思いつつ、聞かずにいられなかった。
「新しいとこ? ――ああ、玲香のところには行かないよ。知ってると思うけど、彼女、交友関係、派手だし、行きたいって言っても断られると思うよ。自分の部屋に戻っただけ」
「そうなんだぁ……」
二十四時間、あのいけすかない人と一緒にいるわけじゃないと聞いて安心する。想像するのは、いつもそのことだったから。
「あ!」
ドアの前まで来て大切なことを思い出す。気持ちが浮かれていて、うっかり忘れていた。
「どうしたんだよ」
「ちょっと待ってて……部屋、散らかってるの」
「大丈夫だよ、由芽はいつもキレイにしてるじゃん。大体、何年一緒に暮らしたと……」
最悪だった。
シンクはこの前、鍋をやったときのままだったし、洗濯かごには脱いだものが滑り落ちそうに投げられていた。
ベッドの上には今朝、何を着ようか迷ってクローゼットから出した服が山になっていた。
極めつけが……昨日飲んだビールの空き缶だった。まるで酒乱のような本数で……。要に会うことで頭がいっぱいで、それ以外のことには気が回らなかった。
「ちょっとサボっちゃった……」
要は少し黙って何かを考えていた。その時間は短くも感じたし、長くも感じた。「ああ、やっちゃった」と後悔してももう遅い。言葉が、彼の口からこぼれる。
「由芽、今日は帰らないからさ、一緒に片づけよう? 手伝うよ」
「……ごめんなさい。心配しなくても一人でできるから」
遠慮するなよ、と要は言った。
みっともない自分が嫌になって泣きたくなる。これでは嫌われても仕方ない。
「まず洗濯からね」
「え? いいよ、ほら、下着とかあるし」
「今更だろう?」
要はまるでずっとうちにいたかのように見えた。不自然なところはひとつもなく、笑顔を見るだけで心が温かくなった。わたしはぼーっとその光景に心を奪われていた。
「次、洗い物やるね」
「ああ! シンクがヌメッてたらごめん」
「今まで二年間、ヌメらなかったことのほうがすごいよ。……由芽にもこんなとこがあるのかって、悪い意味じゃなくて安心した」
「?」
「あんまりオレに弱みを見せないじゃん」
そんなこと、と言いたかった。要がいないとわたしはダメなんだもの。いてくれたからいつもがんばれるし、笑顔でいられる。気がつかなかったの?
ベッドの上で、今朝脱ぎ散らかした服を1枚ずつ畳む。シャツはボタンを留めて、お店で売っているときと同じ形にする。それから縦方向に巻いて、収納力を高める。
「それ、オレも今、やってるよ。襟もよれないしいいよね」
「そうなの。襟がよれないの」
「そのストライプのシャツ、新しいね。見覚えがない。まだ着てるとこ見たことないよ」
体に当てて要に見せる。
「この間買ったんだけど……どうかな?」
「うん、似合うけど由芽じゃないみたいだな。いつも、白か生成りしか着ないじゃん」
そうなの、わたしにはやっぱりストライプは似合わないの。似合うとか、似合わないとか、それはその人に映えるかどうかじゃなくてその人らしさも大切な要素なの。……わたしらしさを知っててくれる、要に抱きつきたくなる。抱きしめて、キスをして、「好きだ」って言いたい……。そういう気持ちを我慢する。
わたしにはそういう権利はない。
「泊ってくなら、夕飯、食べるよね?」
「冷蔵庫、何もないじゃん。買い物に行こうか? ひと段落ついたしね。あ、今日は気張らなくていいから」
「うん?」
気張らない料理にぴんと来ない。頭の中で想像する。久しぶりにエコバッグを提げて、要と買い物に行く。鼻歌も歌えそうな気分になる。
「いっそオレが作ろうか?」
「え? いいよ、働いてもらったし」
「いいじゃん、たまには。よし、由芽のために料理しよう」
買い物に出ようとドアを開けると、しとしとと、冷たい冬の雨が弱く降っていた。わたしは傘を1本持ち、彼は弱い雨だから、と来ていた上着のフードを被った。傘は要がさしてくれて、体は触れ合ってしまっているのに手も繋げないことを気にしながら歩いた。以前と同じようで、以前とは微妙に違う。まるで間違い探しのようだった。
「何がいいかな?」
「今まで、カレーとインスタントラーメンくらいしか作ってくれたことないじゃん」
「そうだっけ? まぁいいや。見てから決めよう」
言葉の通り彼はスーパーをぐるっと回って、豚肉とキャベツと「生姜焼きの素」を買った。
「……本当にそれを入れれば生姜焼きになるの?」
「なるよ」
彼は颯爽とレジに向かった。
彼の料理をちらり、ちらりと覗きながら、残ったキャベツと冷凍してあった油揚げでわたしはお味噌汁を作る。彼は「生姜焼きの素」の使い方を見ながら、楽しそうにお肉を焼いては千切りキャベツに乗せていく。
「そんなに簡単にできちゃうの?」
「うん、うちのおかん、いつもこれだけど。むしろ由芽が初めて作ってくれた時、『本当に生姜、入れるんだ』って軽く感動した」
「本当? 話、作ってない?」
「本当、本当」
彼の笑う顔がかわいくて、つい後ろから腰に手を回してしまった。嫌がられないかビクビクしながら背中にそっと頬を寄せる。
「由芽、今日は無理してない?」
「うん、してない。楽しい」
生姜焼きがフライパンの上でジューっと音を立てて焼けていく。背中に寄りかかるわたしの体がひどく緊張している。突然、カチリとコンロの火を止めて、要の口からわたしが待っていた言葉が飛び出した。
「キス、してもいい?」
「うん、いいよ……して」
要の体がぐるりと反転して、わたしたちは向き合う形になる。彼の腕もわたしの腰に回される。
触れ合うだけのキスを何回も重ねる。
気持ちが高ぶって、彼の次のキスが待ちきれなくなったころ、顎をそっと持ち上げられて深い、深い、繋がってしまいそうなキスをする。「繋がりたい」という思いは確実に彼にも伝わったようで、ふたりしてベッドに倒れこむ。
はやる気持ちを抑えることができなくて、お互いに貪欲に相手の舌を欲しがる。もう、気持ちが戻れない。
「こんなことするの、もう嫌だったら言って。今なら止められるから」
「嫌じゃないよ、要に抱かれたい気持ちでずっといっぱいだったもん」
「お前、そんなんじゃ彼氏できない……」
なんて狡いセリフなんだろう。わたしにはあなたしかいらないってわかっていて、他の男を見つけろと言うの?
「いらない。一生、要じゃなきゃいらない……」
ぎゅーっと抱きしめる。離れないつもりで抱きしめる。例え世の中にいろんな男の人がいて、いろんなセックスがあったとしても、わたしが抱かれたいのは要だけで、要がわたしを愛したいと思ってくれるやり方でいい。
大島さんとするのとは違ってても、要がわたしを二年間同じように抱いてくれた、その方法でいい。初めて、そう思えた。
「今日の由芽、すごいかわいい」
最中に髪を撫でながらやさしい笑顔でそう言った。最中の男の言葉は本気にしてはいけないと聞いたことがあるけれど、そんなことはどうでもよかった。
「だって要が好きだって、今じゃなかったらいつ言うの? わたしにはその権利がもうすぐ無くなっちゃうのに」
別れ話を切り出されてから要には絶対に見せなかった、大量の涙を見せた。しゃくり上げて泣いた。涙はぼろぼろと情けなくこぼれて行ったけど、もう我慢はしなかった。意地を張っても仕方がないと思った。
わたしはこんなに情けない女で、言われた通りに上手に別れることもできないし、もうすぐ捨てられる男の腕の中で喜びを感じているダメな女だ。
「由芽が、こんなに泣いてるの初めて見た」
要の舌が伸びてきて、わたしの涙を味わう。
「別れを切り出されてから毎日泣いてるよ? うちでも、学校でも。心が、ちぎれそうに痛いんだよ」
自分の、あまり豊かとは言えない胸に、彼の手を持ってくる。
「ここのところがね、毎日きゅーって痛くなるの。あの人と一緒のところを見るともっと、きゅーって痛くなる。そういうの、わかる?」
彼の顔に戸惑いが見られた。
「わかると思う。オレもつき合う前、由芽に声をかけられなかったとき、そうだったよ。でも由芽とつき合えるようになって、安心できるようになって、それがなくなったんだよ」
あの日のことを強く思い出して、要の胸に思いっきり頬を押しつけた。
「わたしにはもう、未来はないもん。痛みから解放される日はないもん。もう、毎日が終わりに向かって進んで行くだけ……。あと六日しかないし、日付が変わったら、残りは五日になっちゃう。一週間、切っちゃってるよ」
慣れ親しんだ彼の胸の中で涙は止まることがない。泣き止まないわたしの背中を、要がゆっくりと撫でてくれる。彼は何も言わなくなって、ただわたしの肩の下で切りそろえられたなんの面白みのない髪に、指を通す。頬にいくつものキスを受ける。
「やっぱり、まだ約束した日までこのままここにいてもいい? まだ予定では五日残ってる。その残り五日間は由芽と過ごしたい。虫が良すぎるのはわかってる。嫌なら嫌だって言って。その代わり、その間、玲香には今度こそ個人的には会わない。絶対会わないって約束する」
思ってもみなかった言葉だった。
たった五日間でもわたしには大きな意味のある五日間だった。その日々がここから見ても、美しくきらめいて見えた。
どんなに多くの人にバカな女だと指をさされてもいいと、そう思った。かけがえのない人が誰なのかは、よくわかっていた。
「その間は何もかも忘れていい……?」
「忘れて、それでもっと甘えて。オレ、たぶんもっと由芽に甘えられたかったんだよ。寄りかかってほしかったんだと思うよ。……明日のゴミ出しもオレがするから」
泣きながら笑った。要がティッシュを取って、わたしの不要になった涙をすっかり拭い去ってしまった。そして彼の言葉がわたしを泣かせて、涙をいちばん拭い去った。
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