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四日前(由芽)
朝一番に秋穂ちゃんにメッセージを送る。
『わたしはそれで由芽が納得するならかまわないけど。大丈夫なの?』
『心配してくれてありがとう、わたしは大丈夫。二年間つき合って、もしかしたら今がいちばんしあわせかも。わかり合えてる気がするの』
『何かあったらすぐに連絡しておいで。わたしもいるし、王子もいるからね。代返は任せておいて』
頼りになるのは友だちだ。秋穂ちゃんには返しきれない恩がある。いつか彼女に何かあったら、わたしは何を置いても彼女へ恩を返したい。
王子は……要が学校に来ないことを不審に思って秋穂ちゃんに聞くかもしれない。でも秋穂ちゃんは話さないだろう。誰にも話さないでいてくれると信じてる。
「朝ご飯に甘い玉子焼きが出るとうれしい。お弁当の時でも同じだけど」
わたしは笑った。玉子焼きの作れる女でよかったと思った。
「要が好きだって言ってから、実は少し練習したの。味つけと、焼き方」
恥ずかしくてずっと内緒にしようと決めていたことを言ってしまう。要の、わかめと豆腐の味噌汁を食べていた箸が止まる。
「思えば、ある日いきなり好みの味に変わったんだよ。『甘い玉子焼きが好き』だなんて言ったこと、忘れてたんだね」
「いいの、そんなことは。それからいつでも『美味しい』って言ってくれたから、それでいいんだよ」
嘘じゃなかった。ずっと隠していた小さな秘密を話してしまったのに、それに反して心の中の宝箱には思い出がひとつキラキラと増えた。
「せっかく学校サボってるんだから、何処かに行こうか?」
「うーん……こたつでいいよ? 要、みかん足りてる?」
「みかんはいいんだよ、ほら、由芽の好きなテーマパークとか、動物園でも何処でも」
わたしは要と一緒にいられるなら何処でもよかった。それが例え砂漠でも、南極でも、サバンナでも、彼と一緒にいることに意味があるから。
「うーん、じゃあそんなに言うならそこの公園」
「そこの? いつもの? 寒いよ」
「うん、ダメなの?」
「ダメじゃないけど……まぁいいか、帰りに買い物してこよう」
ドアを閉めるときゅっと冷たい空気に身が縮まって、固く手を握った。手袋を外した片手を、要のダウンのポケットに入れる。手も、気持ちも温かくなる。
「あー、エコバッグ忘れた」
「そういう日もあるよ」
お互いに顔を見合って、くすくす笑う。
公園への細い道を通る間、屋根のない市民プールはお休みで枯葉が浮かんでいた。市営の野球場も、平日の今日は人気がなかった。息が白くなりそうな乾いた空気の中、公園まで歩く。
「由芽、やっぱりこの季節だとすごく寒いじゃん」
「冬だからね、仕方ないよ」
うちの近くにある公園には周囲にぐるっと桜の植えられた大きな池があった。インドア派のわたしたちは外の空気が恋しくなると、手近なその公園によく散歩に出かけた。そして歩いたり、ベンチに座ったりしながら、とりとめなくいろんなことを話した。
水場のある公園の例に漏れず、池には鴨とアヒルが住んでいて、食パンを持ってくるとグワッ、グワッとすごい勢いで食べ始めた。
「お腹空いてたのかなぁ?」
「そうじゃないの? すごい食べっぷりだもん」
「管理人さんみたいな人が毎日餌をあげたりしないのかな?」
「どうなんだろうね」
と話しながら、要は食パンをちぎっては投げていた。
スズカケノキの葉はカサカサと音をたてるだけの枯葉となって、枝には代わりにトゲトゲの丸い実がオーナメントのようにぶら下がっていた。
ピンク色をしたかわいらしいサザンカが所々、咲いている。足元に散らばるまだ茶色くなっていないキレイな花びらだけを選んで拾う。
「キレイな色だよね?」
「ツバキ?」
「違うよ、冬に咲くのはサザンカだよ。ツバキは花びらが散らないで、花ごとぽとん、と落ちるのよ」
要はよくわからない、という顔をした。わたしは風に任せて花びらをぱっと掌から撒いた。水面に浮かぶ桜の花びらのように、サザンカの花びらが水面に浮かんだ。
「夕飯は何にしようか?」
「何かなぁ、温かいものがいいよね。寒かったもん」
「やっぱり由芽も寒かったんじゃないか?」
えへへ、とわたしは笑った。
「シチューにしよう。オレ、作るから由芽はこたつに入ってなよ」
「ええ? 別にいいよ。シチューくらいわたしが作るよ」
「シチューくらい、オレにも作れるよ、たぶん」
何種類も売られているシチューミックスの中から、要は楽しそうに好みのものを見つけたようだった。
ぐつぐつと野菜を茹でるときのやさしい匂いがする……。わたしは本当にキッチンから閉め出されてこたつでみかんを食べていた。けど、要とは違うから2個も食べると飽きてしまった。
要はピーラーで野菜の皮を剥いているときには手つきが怪しかったけれど、野菜を切る時には安定してきてシチューミックスの箱の裏の説明書き通りにシチューに取り組んでいた。
根菜類の匂いの向こうに、ご飯が炊けていく甘い匂いがする。空腹と眠気はなぜか相性が良くて、とろとろと眠気に襲われてきた。
「由芽、できた」
気がつくと肩にブランケットをかけられて、わたしはこたつですっかり寝入っていた。
「手伝わなくてごめんね」
「大丈夫だよ、上手くできたから」
テーブルにはすっかり食事の用意がされていた。
「……かけるの?」
「ダメだった?」
「うーん……やったことない」
シチューがご飯にかかっている。まるでカレーライスのように。
「一人暮らしの男はみんなかけると思うよ。洗い物も減るしね」
なるほど、と変に納得する。席について同時にいただきますをする。
「あ、じゃがいもがトロトロ。ニンジンもよく煮てあるから甘いね」
「でしょ? 由芽のシチューを思い出しながら茹で加減を決めたんだよ」
そういうことを言われると心がまたきゅーっと痛む。要の中のシチューの基本がわたしのシチューであるくらい、要に染みついてくれたんだなぁと思うとうれしい。でもそれでも彼があと四日で別の女のものになるのかと思うと……。
「どうした? シチュー、熱かった?」
彼はティッシュを取ってくれる。
「うん、すっごく熱かったの。ご飯にかけても美味しいね」
と笑ってごまかす。
「おいで。ご飯中だけど……理由はわかんないけど、泣きたいときは泣きなよ。そのためにオレはいるんだし」
言われるまま、要の肩におでこを乗せる頭を子供のように撫でられる。
「悲しくなった?」
「いいんだよ、もう大丈夫。シチュー冷めちゃうし。要がやさしくしてくれたから、大丈夫だよ」
「強がり」
言ったら嫌われちゃうな、と思う。迷う。
「……大島さんにも作る? シチューや生姜焼きを」
要をそっと伺い見る。難しい顔をしている。
「彼女はこんなものは食べたがらないし、オレが作れるって知らないままにしておけばいいんだよ。由芽にしか作らない」
顎を持ち上げられてひとつだけ、口づけされる。
「そんな心配してるとシチュー、冷めちゃうよ」
すごすごと席に戻ろうとして、また引っ張られて本気のキスをされる。
「由芽、本当にオレをまだ好きなの? 他にもいいやつはいっぱいいるし、少なくとも原田は由芽に本気みたいだったし。……あいつ、いいやつだよ。一応、親友だから言わせてもらうけど」
「……わたしに心変わりされたい人はキスなんてしないと思わない? 原田くんのこととか、悪いけど今は全然、考えられない」
「オレのものでいなよ」
ドキッとする。きつく抱きしめられて混乱する。あの夏の日を思い出す。あの日、彼はわたしの手を繋いだっけ?
「……例え残り三日でも、オレのものでいなよ。由芽に相応しい男はそれから探せばいい。オレのでいて?」
ああ、あんなに暑い日だったのに、初めて会って友だちから始めたのに、要はぐっとわたしの手を引いて歩き出したっけ。戸惑うわたしを冷房の効いた学食に連れて行って、そう、冷たい飲み物とヨーグルトを奢ってくれて。「美味しい?」って一言、微笑んだ。
それはとてもいい思い出だったのに、わたしの心は涙でいっぱいになってしまって、要に抱きしめられたまま動けなかった。ただ、
「うん、そうする」
と何度も繰り返した。
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