二日前(由芽)

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二日前(由芽)

 あと二日だと思うと、もう諦めの心が定着してしまって、要との間にあったすべてのことを大切にしまっておこうと思った。  いつも通り(・・・・・)に、朝ごはんの支度をする。残りの時間が少ないとわかってるからこそ、朝ご飯はきっちり作りたい。甘い玉子焼きと、焼いたはんぺん、カブと油揚げの味噌汁。要が玉子焼きを早速箸で取って、にこにこしながら口に運ぶ。わたしまで、しあわせになる。  公園は曇り空で、いつもよりいっそう寒いように思えた。わたしは厚いコートの上に大判のショールを重ねて外に出た。要はいつも通り、ダウンの上着を着てわたしが去年のクリスマスに送ったマフラーを巻いていた。「寒い」と後ろからわたしを抱きしめる。 「なぁ、由芽」 「うん?」 「ここに今まで何度も来てるのに、あのボートって乗ったことないと思わない?」 「そうだね、あんまり営業してるのも見ないし」  わたしたちは対岸のボートのところまで、要の提案で歩いて見に行った。ボートの周りにはたくさんのアヒルや鴨が集まっていて、みな、寒そうに水に浮かんでいた。 「出せるかな、これ?」 「え? 無理だよ、怒られちゃうよ。商売道具なんだし」 「やってみるか」  ロープで固定されていたボートを、どういう風にしたのか上手に外して池の上に浮かべた。 「オール」 「漕げるの?」 「やったことはある。由芽も乗りなよ」  不安定なボートに、要から手を引かれてゆらゆらと乗り込む。「わ!」と思うくらい水面が近くて、ちょっと怖い。驚くわたしに要が「大丈夫だよ」と笑う。  オールの先で他のボートを押すと、面白いくらいすーっとボートは池の中心に向かって滑って行った。わたしたちも水鳥も、まるで空を飛ぶように一様に水に浮かんでいた。舟の上は風が強く、時折ショールがはためいたけれど、飛ばされてしまうことはなかった。 「寒いね」 「うん、寒いね」 「気分はどうですか?」  わたしは曇天を見上げて、しばらくそうしていた。要もオールを休めて、わたしと同じく空を見上げていた。 「吸い込まれそう」 「あの雲の中に?」 「そう、あの雲の中に」  そうしたら、見たくないものは見ないで済むかもしれない。雲に囲まれてしまったなら……。 「要……今更改まって言うのもなんだけど。出会ってくれてありがとう。声をかけてくれてありがとう。あの日、要が声をかけてくれたから今のわたしがあるの。こんな日が来ると思ってなかったけど、もしも生まれ変われるなら、その時、また傷つくことになっても要と出会いたい。今日、ここまで来てもまだ、要に会えなくなる日が来るなんて信じられないなぁ」  情けないことを言ってしまったかもしれないけど、言わないまま会えなくなるよりずっとましだと思った。終わってしまう前に、言いたいことは全部、伝えておきたい。わたしは微笑んだ。  要はしばらく空を眺めて、何も言わなかった。ボートがゆらゆらと、水面を揺らす風を受けて不安定になる。気持ちも不安になるけれど、要といるなら、この先どうなってもいいかな、なんてバカなことを思う。 「生まれ変わっても、由芽を見つけられるかな? ……その気がなくてもきっと、目が行っちゃうと思うよ。視線の中に由芽が入らないようにするのは、あの大教室でも難しかった。恋って、こういうものなんだ、理由なんていらないんだって初めて知ったんだよ」  要は苦笑して、またオールを漕ぎ始めた。  ボート屋のおじさんに怒られないうちに、ボートはそっと返しておいた。わたしたちは秘密の冒険に出てきたかのように、くすくすと互いに笑い合った。 「あれはね、まずいと思うよ?」 「そうかな、あれくらい良くない? 楽しかったし、由芽も楽しんでたし」 「楽しかった! また今度……今度があったらね……。桜の季節になったら、ここにもまたたくさんボートが浮かぶんだね」  でもそこに、わたしたちはいないんだね?  ささやかなお弁当と、要が買ってくるちょっとした出店の食べ物。お弁当には玉子焼きが入っていて、わたしたちはそれを食べてから池の周りを桜を見ながら一周する。そう、ボートに乗る幸せそうなカップルを眺めながら、手を繋いで。  涙は見せたくなかった。  今日一日を楽しく過ごしたかった。  あれから大島さんに呼び出される様子はない。お願いだから、今日と明日のたった二日、わたしに要を貸してください。ふたりだけの時間が砂時計のようにさらさらと流れてしまうなら、またこぼれてしまうことがわかっていても、手のひらで受け止めて少しでもその時間を伸ばしたい。 「由芽? 泣いてるの?」  唇をきつく噛む。一瞬置いて、要に笑顔を見せる。 「泣いてないよ。こんなに楽しいのに泣くわけないじゃない?」  要の口元に微笑みが浮かんで、腕を組むように促される。そう、こんなに寒い日は手を繋ぐより腕を組んで寄り添う方が余程暖かい。要の肩にもたれかかる。 「恋人同士って感じがするね」 「そうだね」 肘で相手を小突きあってふざけながら歩いた。 「あのさ」 「うん?」  要はまた言いにくそうに目線を逸らして話を始めた。 「……今日は十六日目だってことはわかってるんだけど、由芽はオレのこと、好き?」 「そうだね。まだまだ有り余るほど好きみたい。明日で終わりなのに困るよね。……ちゃんと『他人』になれるよう、がんばってみるよ」  わたしも目を合わせることができない。途中にある自動販売機で温かいコーヒーと紅茶を買う。ペットボトルのキャップがなかなか開かなくて、要に開けてもらう。近くのベンチで口にすると、体の真ん中に温かい液体が流れていくのがわかる。 「由芽がオレを好きになってくれて本当にうれしかった。告白して上手くいったとき、みんなに自慢して歩きたいと思ったんだよ」 「それであのとき、わたしを原田くんたちにすぐ紹介したんだ?」 「みんな、オレが告白しに行くって知ってて待ってたんだよ、フラれるのをね」  笑みがこぼれる。そうそう、学食で冷たい飲み物を飲んでいたら、男の子数人がやって来て人見知りなわたしは驚いてしまって。  だけど要の友だちが予想していたような展開にはならなかった。大人しく見えたわたしは、彼の告白をすんなり受け入れたから。彼が差し出した手を取って、彼と歩む道を選んだから。それには何の理由もなかった。彼が好ましく思えて、その不器用な告白がうれしかった。  話が途切れて、ペットボトルで暖を取る。 「ずっと覚えてるよ。忘れない。告白された日のことも、ふたりで生活した日々も、この、別れのための十七日間も。全部わたしには大切な日だから……ありがとう」 「この十七日間も?」 「……もちろん。要のことを今までで一番近くに感じたもの。今まで知らなかった要をたくさん知って、ああ、こんなに知らないことがあるならフラれても仕方ないかなって思う」 「由芽……明日、もしかしたら由芽にプレゼントがあげられるかもしれない。でももし、できなくて悲しませたらごめん」 「? 別れの記念品なら、ガラスの靴をもらったよ?」 「また別の、プレゼントだよ」  意味深なことを言うと彼は立ち上がってわたしに手を差し出した。
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