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十七日前(要)
オレ、森下要と汐見由芽は、つき合い始めて二年を過ぎた。でもオレたちは十七日後に別れる。
由芽に別れを切り出した。
二年という月日の積み重ねがすべて無意味になる、その瞬間がとうとうやってきた。
由芽には少しの非もない。原因は全部、自分にあってそれをバカなことだと自覚している。けど、走り出してしまったものは仕方ない。どこかのポイントで切り替えが上手くいかず、オレは由芽より「大島玲香」さんを選んだ。真っ直ぐ今まで通りの道を選ばなかったことに悔いがないわけではない。でも、もう戻れない。悩んでも仕方ない。
玲香とオレは同じゼミだったけれど、彼女にとってオレはその時までそれ以上でもそれ以下でもなかった。
ゼミ以外でも評判の美人で、男性に劣らず大胆な人だ。彼女に口で敵う人はいなかったし、彼女のすることは全て正しいように思えた。
たぶん、彼女を知る人はみんなそう思ったに違いない。
常に派手な取り巻きに囲まれていて、それを乗り越えるのは困難に見えた。彼女の爪にはいつもキレイにネイルが塗られていて、真っ赤なネイルにキラキラ輝くストーンが施されている。それは彼女の自信の表れのようだった。
そしてオレはきっと自分の人生で袖触れ合うことのない人だと思っていたので、いつも彼女を遠巻きに見ていた。
ゼミの飲み会の後、酔っ払いたちはそれぞれ自分の帰る方向へ散開して、気がつけばオレと玲香は二人だけだった。
二人で飲み屋ばかりの繁華街を言葉少なく歩くと、不意に、店と店との間の暗がりで彼女はひとつ、濃厚なキスをしてきた。驚いたけれど、彼女は微笑んでいたのでふたつめのキスは自分からしてしまった。細い腰に手を回すと、彼女はすべてをオレに預けて来て、すぐそこにあったホテルを指さし甘い声で「入らない?」と入口を示した。「え?」と一瞬固まった。あ、そういうことか、と理解するともう理性が働かなかった。彼女を押し倒していいんだと思うと、もう止まらなかった。
――由芽の顔が浮かんだ。一度だけなら、言わなければいいかもしれないと、悪い考えが胸をよぎる。
そうして、それは「いいこと」ではないとわかっていたのに、オレは彼女を抱いた。彼女は他のことと同様、ベッドの中でも大胆に、自由にオレを翻弄した。
朝まで彼女を抱いた後、「森下くん、つき合わない?」と彼女は微笑んだ。そのとき、よく考えずに彼女に酔っていたオレは、
「あ、いや……今の彼女と別れるまで待ってくれるなら」
と答えた。彼女は笑いながら、
「森下くんて面白い。わたしを待たせる人ってなかなかいないよ。いいよ、わかった。彼女と別れてきて」
と言った。
そうなってしまってから、オレの頭は混乱した。
彼女はオレが上手に由芽を忘れられるように仕向けるかのよう、彼女の部屋に度々呼び出した。それに応じるのは由芽ときちんと話をしてからだと思いながら、断れない。あんなに魅力的な彼女を占有できる何かが自分にあることが奇跡だと思った。
それでも、心の片隅には由芽がいつでもいた。現実的にも部屋に帰れば由芽がいて、オレは玲香と会った日はバレないように帰ってすぐ、シャワーを浴びる。
心の中の由芽の居場所は少しずつ小さくなっていく。それでいいんだ、という思いと、由芽を失ってはいけないという思いが交錯する……。
ごめん、由芽のことは好きだけど……玲香を手放したくないんだ。
こんなことをしても、飽きっぽいと評判の玲香はオレのことも他の男同様、簡単に切り捨てるだろう。それでも、玲香に溺れてみたいとそのときはそう、強く思った。
由芽は彼女とは正反対と言える「女の子」だ。
オレから告白して、かれこれ二年と少し、なんの波風も立たずにつき合ってきた。小さなケンカはなかったわけでは無いけれど、いつも由芽が最後は折れてくれた。由芽は、そういう女の子だった。
料理が好きで、部屋はいつもゴミひとつなく片づいているし、オレの洗濯物まで一つ一つを洗濯ネットにきちんと分けて洗ってから干してくれる。晴れた日には布団から、お日様の匂いがした。
オレは心底、由芽を大切にしようと思ったし、実際そうしてきたと思う。由芽がしてくれることに報いたかったし、そうすることで自分も背筋を正していられる気がしていた。
そんな二人の間に挟まれて右往左往しているオレはというと、中肉中背、何の個性もないつまらないその他大勢だ。学校での成績もいたって普通、見た目がいいわけでもなんでもない。
大胆で美しい玲香と、地味だけどかわいい由芽、二人を天秤にかけるほどの魅力はオレにはないはずだった。
悩んでもなかなか行動に移せずにいると、玲香は、
「わたし、二股みたいなのやだ。あの子が本妻みたいで、わたしが浮気相手みたいじゃない? それとも森下くんはあの子を選ぶわけ?」
と辛辣な言葉を投げてきて、とうとう別れないわけにはいかなくなった。
それはゼミの飲み会から一週間ほど経った、昼休みのことだ。
「別れてほしいんだ。他に好きな人ができたんだ」
由芽は一瞬、「何のことだかわからない」という顔をしたあと、
「……そうなんだ」
と一言だけ漏らした。彼女の膝の上には二人分のお弁当箱が乗せられ、一点を見つめ、何かを考えているような顔をしていた。
別れのときに及んで、たった一言、「そうなんだ」とだけ答える彼女の気持ちがよくわからなかった。由芽の顔には「泣いてしまいたい」とは書いていなかったし、「別れたくない」とも書いていなかった。この2年間でいちばん彼女がわからなくなった。
オレは彼女がきっと泣いてしまうと思って、彼女をなだめる言葉をあれこれ前もって考えていた。用意したすべての言葉は無駄になった。
「……うちのゼミの大島さん、知ってるだろう? 彼女とつき合うことになった。この間のゼミの飲みのとき、その……」
頭の中で何度も練習したのに、上手く伝えられない。
「大島さんと、寝た?」
「うん……」
「彼女との『セックス』が良かったんだ?」
「ごめん、由芽とするのとは全然違って……」
勝手な話だけど、オレの知る限り由芽の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。オレの知る由芽はかわいくて、大人しい、純粋な女の子だった。そんな彼女に『セックス』という言葉を使わせる自分が情けなくなる。
「明日からお弁当、いらないかな? いつ引っ越すの?」
結局、話の最後まで彼女は涙など見せずに現実的な話をした。なんで泣かないし冷静なんだろう、と逆に不思議になる。……由芽もオレに飽きていたのかもしれない、なんてバカな思いが胸をよぎる。
とにかく現実的な問題として、二年間つき合った精算をしなければならない。
オレの荷物の大半は由芽の部屋にあったし、由芽のところに預けたオレの気持ちも……整理しなければならない。
それには何日かかるのか、決めかねた。
今日のうちに出ていって、荷物は少しずつ運べばいいのか……そんなことをすれば由芽と顔を合わせる度に、由芽の部屋に足を踏み入れる度に申し訳なくてたまらなくなるだろう。
そして自分の胸もキリキリ痛むことを、オレは知っていた。心の整理もしなくてはならない。
「由芽はいつがいい?」
「わたしはいつでも……」
どちらも決められないのなら、いっそ運を天に任せようとその日数を乱数で決めようと思いついた。乱数というのは無作為抽出で選ばれた数値のことだ。今は便利なことに乱数を作るスマホのアプリもあってその場でインストールした。
「別れるなら、せっかくだから計画的にきっちり別れよう。乱数を作れるアプリ、落としたから。別れるまでの日数は、七日から三十一日の間でいい?」
「あ、うん……」
別れを止めるなら今だ。由芽が「押さないで」と言うかもしれない。オレはスマホのかわいげのないその画面をタップする前に、彼女の目をじっと強く見つめた。
「押すよ」
画面には一瞬にして、素っ気なく「十七」という文字が表れた。彼女は「押さないで」とは言わなかったからだ。
由芽は「素数だね」と言った。数学が苦手な由芽は以前、テレビで見てから「素数」がお気に入りだった。
三十一までの素数なら、二十九や三十一だってあるのに、と心の隅でぼんやりと思った。そして、彼女、玲香は十七日という日数の長さが気に入らないだろうな、とも思った。
乱数で選ばれたその日数は何だかひどく中途半端だった。
「十七日間の計画」
十七日前(今日)……別れる計画を立てる
十三、十二日前(土日)……思い出作り
六日前(土)……要が出ていく日
一日前(木)……別れる日
由芽が夕飯の用意をしている間、カレンダーを見ながら雑な予定表を作る。どこから見ても雑だった。でも、あと十七日で別れてしまうことが紙の上で明らかになる。自分で決めたことなのに、信じられない気になる。なぜって? 二年も一緒にいた由芽を置いて出て行く自分が信じられなかった。
「お、今日は和食じゃん。由芽、得意だもんな。玲香は……」
玲香は。言ってしまってから気まずくなる。口に出していいことじゃない。まして呼び捨てで。それ以上は言葉にならず、飲み込んだ。
「あのね、おかしいかもしれないけど、大島さんの話、普通にしてくれていいよ。デレてくれても構わないし」
「さすがにそれは由芽に悪いし……」
デレるって……。彼女とはまだほとんどベッドの中だけの関係だった。彼女がベッドの中でどんな風なのかデレろって? そんなことできない。
「大島さん、料理、全然できないらしくて」
由芽は話に関心を持たなくなったのか、あるいは料理の盛りつけが忙しくなったのか、オレの顔を見なかった。
「そうなんだ。今、そういう子、多いらしいよ? ほら、わたしは貧乏性だからさ、自炊してるだけで」
その日の献立は、ブリの照り焼きと里芋の煮っころがし、小松菜のおひたし。
由芽はたぶん他の女の子よりずっと料理が上手だ。玲香とは比べ物になるわけない。「出汁から取ることが秘訣なんだよ」と前に言っていた。
オレは何だかバツが悪くて何も言わず冷蔵庫からビールを取り、席に着いた。
丁寧に盛り付けられた料理を見ていると、彼女の気持ちが垣間見えるかもしれないと思ったけれど、涙ひとつこぼさない由芽が何をどう考えてるのか、オレにはわからなかった。
その晩は不思議な思いを抱えながら同じベッドに入った。
他の女に心変わりして別れを切り出したのに、腕の中に彼女がするりと入ってくるのか……? 由芽は一瞬戸惑ってから、いつものように腕の中に入ってきた。
手を伸ばせばやわらかい髪に、頬に触れることができる距離に彼女はいる。玲香とのことを話してしまった薄汚れた自分が純粋な彼女を求めていいのか、気持ちが答えを求めて彷徨う。
由芽は今でもかわいかった。初めて彼女を好きだと気がついた時からずっと変わらずかわいい。変わったのは自分の方で、由芽との間にある温かいものより刺激的な女性を選んでしまった。
自分のせいで離れていくというのに、彼女を失うことが辛いのは長く一緒にいたせいかもしれない。
唇を求めると、そのふっくらした唇が応じて「何も変わらないよ」というように受け入れてくれる。そして、いつもと同じく変わらずに由芽を抱いた。……刺激はなくてよかった。いつも通りでいることが、ふたりには居心地がよかった。
玲香とするセックスはまるで「男としている」ような、襲われるかのようなものだ。由芽にそんなことは求めない。
由芽はやわらかくて温かかった。
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