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十六日前(要)
嫌な天気だった。曇り空でいつ降るかわからない。このところ、雨が多い。
家事が万能な由芽は、実は朝が弱い。いつものようにオレが先に目が覚めて、由芽の顔を眺めている。いつもと違うのは、どうしても複雑な心境になってしまうことだ。彼女を抱いた次の朝、しあわせな気持ちでその顔を見られないのは自分のせいだ。
玲香には朝一番に会う約束を取りつけて、昨日の話をした。
「なんでわたしが『十七日』も待たなくちゃいけないのよ」
と思っていた通りのセリフが出た。オレは彼女の機嫌を損ねないように、「時間が必要なんだ」という話を根気強くした。
「……いいよ、わかったから。今までいつでもわたし優先の人とつき合ってきたの。……わたしだって寂しくなるんだから週に二回くらいはわたしと会ってね」
彼女は軽くキスをして、返事も待たずに自分の友人たちのところへ行ってしまった。
そんな日でも由芽は弁当を作って、待ち合わせ場所で待っている。
あんなことがあってもまるで、何事も無かったかのような笑顔でオレに小さく手を振る。その仕草がかわいい。息を切らせて由芽のところまで走った。
「ごめん、講義長引いて」
「大丈夫だよ。今日はサンドイッチだから何処でも食べられるよ」
キャンパスは広いといえどもやはり「いい場所」というのはあって、順番にそういうところは埋まっていく。せっかく美味しいお弁当を作ってきてくれているのに、例えばじめっとしたベンチや、冷たい土の上で腰も下ろせずに食べるのは残念だ。
由芽は準備が良くて、二人で座れるレジャーシートを持ってきていた。図書館前の芝生に、シートを広げる。
玲香が、離れたところからオレを見つけて、目が合うと手を振ってきた。オレも片手を軽く上げる。彼女はいつものように派手な連中と歩いていて、自分はとてもそこに混じる度胸がない。
でも、オレは確かに今、由芽の彼氏であると共に玲香の彼氏で、だからこそ彼女は手を振ってくれる。あの、オレの背中に食い込む赤いネイルを施された爪を思い出す。あの痛みは確かにオレが玲香を抱いた証だから。
「食べようか」
玲香に気がつかなかったわけがない由芽が、お弁当箱をすでに開けて待っていた。彼女の作る弁当は今日もおかずまで完璧に美味しくて、その完璧さが今の自分には相応しくないような気になる。
由芽の作るサンドイッチの卵サンドは変わっていて、オレの好きな甘い玉子焼きを薄く焼いたものが何枚か重ねられて入っている。マヨネーズの代わりにケチャップがかかっていて、それを考えるだけでうれしくなってくる。
オレは、玲香と体で結ばれる約束をしているような男で、由芽はそういう世界とは無縁なところにいる。……勝手だけど、由芽がそういう欲求だけの女になってしまうのは嫌だ、と強く思った。自分のことは棚に上げて。
「ただいまー」
「おかえり」
バイトの帰りに雨に降られた。由芽が傘を持たせてくれたので、ひどく濡れることはなかった。
「さんきゅ」
何も言わずとも、濡れたパーカーを彼女はハンガーに干して、乾いたタオルを渡してくれる。……いつもはバイト帰りに、玄関で後ろから抱きついて甘えてくるのに今日はそれがない。
「シャワー、いいかな?」
「どうぞ」
キッチンからいい匂いが漂ってくる。今日は洋食みたいだ。
「お待たせ。今日は洋食だね。オレ、そのグラタン好きだよ」
そう言うと由芽は満面に喜びを表した。由芽がこんな風に笑うのを久しぶりに見た気がして、もっと笑わせてあげたいと思った。オレたちにはまだ「十六日」ある。
メニューは、オニオンスープとポテトグラタン、ハンバーグだった。もちろんハンバーグにはブロッコリーとニンジンのグラッセものっている。由芽はちょっとした記念日なんかにこういう凝ったものを作ってくれた。
「このグラタン食べたときのこと、覚えてる?」
「あー、あ! クリスマスだ。キッチンで料理してる由芽の代わりにオレが買い物に行った」
「そうそう」
由芽は思い出したオレの顔を見て、にこっと笑った。
「去年はよくわかってなくて先にケーキ買っちゃったから、人混みの中、ケーキを揺らさないようにチキンを買うのが大変で」
思い出してみると、するすると記憶は出てくる。
そうだ、由芽は激甘なものが苦手だから、生デコじゃなくてチョコレートクリームのケーキを買ってやろうと思いついたけど、人の多いデパ地下で探すのが大変で、実はチキンを買う前に見つけてすぐに買ってしまったんだ。……でもこれは由芽には、今も内緒だ。そんなことで彼女のために一生懸命だったことを知られるのは恥ずかしい。
「あの時のケーキ、美味しかったね。ほらサンタさんの……」
それはさっきのチョコクリームのケーキのことだ。
「ああ、小さいサンタさんが乗ってて、由芽が『子供みたいだね』って笑ったやつだ。由芽が、『大人っぽいのもあったでしょう?』って言って、どうせだからキャンドルいっぱい挿したの覚えてるよ」
「キャンドルたくさんあって、キレイだったね」
彼女は楽しかった思い出に浸っているのか、テーブルに頬杖をついて、ポテトグラタンを眺めていた。二年もつき合ったのに、クリスマスはたった一度しか来なかった。それは当たり前のことだけど、もう少しあってもよかったかもしれない。
もうすぐやって来るクリスマスには、やっぱりオレは玲香のためにケーキ専門店で高級そうでオシャレなケーキや丸鶏、シャンパンを買いに奔走するのだろうか……?
今年もクリスマスが近い。
夜のニュースを見ているわけでもなくテレビがつけっぱなしになっていた。由芽はほとんどアルコールが飲めない。でも今日はちびちびと、炭酸がすっかり抜けてしまいそうな速さでビールを飲んでいる。
ちらり、と横を見ると、すでに酔い始めている彼女の潤んだ瞳と赤くなった頬が目に入る。珍しく、由芽の方からキスをねだってくる。ためらいながら、唇を寄せる。魚のように唇を何度も繰り返し、互いに求め合って、ラグマットにそっと由芽を押し倒した。
目が合う。
……躊躇してるのかもしれない。オレにだってそれくらいのことはわかる。他所で他の女を抱いているような男に、由芽みたいな女の子は抱かれたらいけないんじゃないかと思う。
もっと、大切にしてくれる誰か……。誰を? 何故かオレの心が傷んだ。由芽を捨てるのはオレなのに、心の整理がちっとも上手くいかない。
もう少し、由芽と一緒にいる時間を減らすべきかもしれない……。
いつも通り、丁寧に彼女を抱く。決して大きく声を出したりしない。そんなことは恥ずかしいと彼女は信じているし、それを恥じて時々、どうしようもなくて声を漏らす彼女がかわいい。
唇から、耳元、首筋……裏側に小さくキスマークをつけた。由芽はオレのものだと主張するための癖だった。まだ17日あるから、その間に消えるだろう。
「もっと強く……」
と彼女は初めてオレを求めた。
今までは漏れる声すら我慢していた彼女が、自分の要求をするなんて、新鮮だった。彼女が何も言わない人形みたいだって思ってたのは誰だ? 由芽はまた声を上げる。
「止めないで」
そのたった5文字がひどく魅惑的で、心を強く刺激する。
「止めないで、お願い……」
荒々しい吐息の中で言葉を発する彼女は、いつもと違う顔をして見えた。それはたぶん、女の顔だった。オレがずっと、彼女にはないと思っていたものが、ここに来て表れた。……由芽も、男次第で玲香のように乱れる日が来るのだろうか? そして。そしてその時、オレはそばにいないのだろう。
「明日なんだけど」
「うん?」
「……昼は友だちと約束してるからさ」
「あ、お弁当はいらないのね? わかったよ」
友だち、と言っても原田たちではなかった。
オレの友人はみんな、由芽のことをよく知っていて、由芽を大島玲香の代わりに捨てようとしているオレを強く非難していた。
由芽がどんなにオレに尽くしてくれているか、2年もそばで見ていればわかるのかもしれない。
ゼミの仲間内でも、玲香の評価は低かった。次から次へと身内の男たちに手を出していく姿は確かにオレも「怖い」と思った。けど、飛び込んでしまった。何人の男と寝たのかわからない女のところへ。
明日の昼は、玲香と食べる。いつもは学生はあまり行かない美味しい店に行くらしいんだけど、「たまには学食もいいんじゃない?」とサラッと言った。
玲香の取り巻きに混ざって食べるのかと思うとプレッシャーだ。でも、あの中で玲香のたった一人の彼氏はオレだ。何も恥ずかしがることは無いし、胸を張っていればいいだけだ。
玲香はオレのものだから。
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