1057人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ
十五日前(由芽)
『今夜はゼミで飲むことになったから』
マナーモードにしていたスマホが、カバンの中で小さく振動する。要からのメッセージだった。
つまるところ、飲んだ後に何処かに泊まるかもしれないということだ。今までもそういうことはあったけど、わたしは激しく動揺しながら、
『りょ』
と返事をした。
わたしたちの間ではいつからか、『了解』の短縮形として『りょ』と記すのが習慣になっていた。
そういうふたりだけの小さな積み重ねが、今、だるま落としのようにひとつひとつハンマーで壊されているんだなぁと思っても、誰にも言えない。
昨日、要に聞いていたように、「一緒にお昼ご飯は食べられないから」と秋穂ちゃんを誘って学食でふたり、ランチを食べていた。
すると後ろから突然、
「こんにちは」
と声がかかった。
「……こんにちは」
彼女と話をするのはそれが初めてだった。わたしより長い手足、小さな顔にパッチリとした二重の大きな目、鼻筋の通ったモデルのような顔立ち。そして、指先にジュエルの施された真っ赤なネイル。
――どうしてこの人が要を選ぶんだろう? きっと、男の人なんてより取り見取りだろうに。
「森下くん、今日は借りるね。あと十五日しかないのに申し訳ないけど」
彼女は口の端でくすり、と笑った。ああ、やっぱり「借りる」のね? 今日は帰ってこないのね?
そうしたいわけじゃなかったけど、つい口調がきつくなる。
「心配してもらわなくても。どうせもう別れてるようなものだし。気持ちが離れちゃってるんだから、期限切ってこんなことしても意味ないって、大島さんもそう思うでしょう? 要の考えてることって笑えるよね?」
「あら、聞いてたのと違って汐見さんって意外と辛辣。もっと大人しくてかわいい人なのかと思ってた。でも言う通りかもね。動いた心は戻らないし。森下くんも変わってる、『十七日』とか。普通、乱数とか考えつかないよね。わたしは待てるから別にかまわないけど、反対の立場だとツラいんじゃない?」
じゃあまたね、と言って彼女は消えた。
とりあえず言いたいことは言ったらしい。わたしのような地味な女にはあまり興味もないんだろう。
それはそうだ、彼女にしてみればわたしみたいにつまらない女に自分の男を盗られる心配はない。いてもいなくてと一緒だ。
ようやく行ってくれたと思って長い溜息をついたら、遠く視線の先に要が見えた。離れていても、彼の笑顔が手に取るようにわかる。
ああ、要はあの女と約束してたのか。甲斐甲斐しく席を取ってやったり、自分の食事も満足に作れない女に奢ってあげたりするのか。
「由芽?」
秋穂ちゃんが驚いて、素っ頓狂な声を上げる。
それはそうだ、わたしは両手でハンカチできつく握って目を押さえていた。とてもじゃないけど、今日は耐えられなかった。なんで、なんで、なんで……? どんどん自分が嫌な女になっていく。わたしが嫌な女になるのと同じ速さで、要は彼女に溺れていく。
「大丈夫だよ……、こんなこと、大したことじゃないから」
「由芽さぁ、その『十七日』っていうの、もうやめたら? 見てて、こっちもツラくなる。他人がどうこう言ってもどうなるものじゃないのはわかってるけどさ、きっぱり別れちゃった方が精神的に楽になるって。もう森下はやめなよ。すぐに気持ちが切り替わらないのはわかるけどさ」
そう言われても素直にうなずけない。だってその約束をやめたら、もう二度と要は彼女の元からわたしのところに帰ってこない。
さっさとうちを出て、あの美しくて残忍な人のところに行ってしまうもの。
その日の講義が終わると、要のいない部屋に秋穂ちゃんが遊びに来てくれた。いつもは要がいるので友だちをほとんど呼んだことがなかったし、要もそうだった。
「うわー、カップルが同棲してる部屋ってこんなん? 由芽って部屋、キレイにしてるねぇ」
「ひとりじゃないからね。要が気持ちいいように部屋はキレイにしてるだけ。本当は掃除、あんまり好きじゃないんだぁ」
秋穂ちゃんは同情したやさしい目をして、
「まぁ、今日はさ、楽しくやろうよ」
と言ってくれた。
普段なら絶対に頼まないピザの宅配を頼んで、お笑い番組を見ながらポテトチップやポッキーを食べた。指をさしてお腹が痛くなるほど笑いに笑いまくる。
果汁の入ったジュースみたいに甘いチューハイをそれぞれ味の違うものを選んで味見して、それから交換してもう一方も味見した。
それから更にデザートと称して、近所で評判の店で買ってきたケーキをひとり二個ずつ食べた。ベリーの乗ったタルトは最高に美味しかった。
お腹はいっぱいで、もう何も入るところはなくなった。
アールグレイを淹れる。強いベルガモットの香りがぱーっと広がる。
「食べ過ぎー! ちゃんと帰れるかな?」
「泊ってもいいよ」
ティーカップをテーブルに運びながら、わたしは親友にそう告げた。
「えー、いいよ。森下くん、帰ってくるかもしれないじゃん」
「どうかなぁ?」
苦笑いで答えるしかなかった。終電間際、もう飲み終わって今頃は彼女とホテルにでも行ってるのかもしれない。そんなところに行ったことがないから、どんなものかよくわからないけれど。
「ねぇ、秋穂ちゃん……」
「ん?」
「Hの種類ってどんなのがあるか、知ってる?」
「えー? ここでそれを聞く?」
秋穂ちゃんには高校時代からつき合っている彼がいて、週に二、三回は彼と会っている。こんなに親しくしている彼女でもさすがにその話題には顔を赤らめた。
「ちなみに。由芽はどんな感じ?」
「あのね、…………」
酔った勢い、というやつだ。それでも顔から火を吹く思いだった。自然、小さな声になる。
「森下は二年もつき合ってるのにずいぶん、保守的だなぁ? 自分がそんなに保守的で、刺激的な彼女に乗り換えるとかないでしょ。彼女はそんなんじゃ満足しないんじゃん?」
「で?」
「えー? まじでここで言うの? ……いいけどさぁ、由芽には刺激が強すぎるんじゃないかなぁ? 例えばさぁ…………」
聞いたこっちがドキドキするような内容で、こちらが恥ずかしくなった。
「わたし、そういうの、できないかも。秋穂ちゃんはしちゃうんだ?」
「いきなりは無理だよ。それにさ、そういうのは男が上手くリードしてくれるものだし。由芽に経験がないのは、森下のせいだと思うよ? やっぱり男が『大丈夫だよ』って言ってくれて、女は安心するじゃん?」
秋穂ちゃんが帰ってしまうと部屋の中は妙にしんとして、いつもより広く感じた。コンビニに行って、缶ビールを三本、買ってくる。ピザとケーキで本当にお腹はいっぱいだったけど、炭酸で気持ち悪くなりながらそこにビールを流し込んだ。
味なんてどうでもよかった。ただ酔えればよかった。こんなに寂しく夜を迎えるのは嫌だった。
泣ける理由を作るために、大好きな「ローマの休日」のDVDを見る準備をする。いつ見てもヘップバーンは美しくて、最後のシーンの新聞記者の後ろ姿に泣かされる。
「一緒にいても幸せになれない」
新聞記者は王女を無言で見送る。ふたりは別れるのだ。王女の立場を理解したふたりは、別々の道を歩む。
この映画を一緒に見たとき、要は「何があっても手を放したくないけどなぁ」と言った。男の人にはあまり共感できないのかな、と思った。手を放したくなくてもそうしなければならないときがある、それは悲しい別れでもあり、お互いのためでもある、そういう映画なんだ。
ビールに酔って、DVDを見る。ヘップバーンのパッとした目鼻立ちが、誰かをふと思い出させる。泣く準備はもうできた。
「ローマの休日」が今日も悲しくて、涙をだらだら流して泣いた。
ベッドの、いつもは要が寝ているほうの布団をパンパンと叩く。枕も真ん中に置く。今日は誰に遠慮するでもなく真ん中で大きくなって寝るんだ。ベッドから落ちる心配もないし。体も痛くならないだろう。……背中がさみしい。
想像しなければいいのに、そうしないわけにはいかなかった。
きっと要は今頃、彼女を抱いているんだろう。秋穂ちゃんが言っていたような、わたしの知らないいろんなやり方で。男の人から見たらたぶん、魅力的な彼女を刺激的に。
最初のコメントを投稿しよう!