十二日前(由芽)

1/1
1057人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ

十二日前(由芽)

 予定表では今日も「思い出作りの日」だったのに、「要はバイトに行く」と言い出した。  わたしは、「ふぅん、いってらっしゃい」と送り出したけれど、日曜日のこんな時間に今までバイトに行ったことはなかったことを知っている。  つまり呼び出しがあって、大方、彼女とデートなんだろう。もちろん、内心穏やかではない。きっと帰りは遅くなるんだろうし、夕飯の支度はしなくていいんだろう。  一人でいても暇なので、押し入れからこたつとこたつ布団と下敷きを出して、布団と下敷きをベランダに干す。冬になるというのに弱々しくも太陽が出ていて、抱き枕を抱えてぼんやり、とりとめのないことを考えていた。  去年の今頃はここらへんに要が座って、みかんをもりもり食べていたっけ。要は何かを食べさせるとずーっとそればかり食べ続けて、最後には食べ尽くしてしまう。十個入りのみかんを買ってきても、あっという間に要が食べてしまうので、なんとなくそれを、自分は食べるではなく眺めていた。大きな口でばくっと食べられていくみかんたちを、膝枕してもらって見ていた。  あのお洒落でネイルたっぷりの大島さんと、こたつでみかんを食べているというのは想像しがたかった。彼女の爪では皮は剥けないだろうし、部屋にこたつは置かないタイプだろう。  ふたりで今頃、何をしているんだろう?   彼女の趣味に合わせてショッピングとか? 要も人混みは嫌いなはずなのに。両手にショッピングバッグを持たされて、顔には出さないけれど心の中では不機嫌な要を、想像する。  もし今日、「思い出作り」の一環で出かけたのがわたしだったらどうだったんだろう? ショッピングに行ってもふたりして人酔いして、ベンチでぐったりする。わたしはお気に入りの白いブラウスを着ていつも通りパスタソースでシミを作り、要が気にして一生懸命拭いてくれる。  ……わかってることは、要は今日はいないってことだ。昨日の続きが、当たり前のように今日にはならなくなった。毎日が積み木のように音を立てて崩れては転がっていく。  たまには、と思って気分転換にひとりで駅ビルに買い物に行く。ここは最近建て直したばかりで、雑貨や洋服から、流行りのカフェやレストランが入って見応えのある場所だ。特にわたしは文房具が好きで、使いもしないのにいろんなペンやら絵の具やらを持っている。  店頭に行って新しいボールペンやシャープペンシルが出ていないか、新色はないかチェックする。ぐるっと一通り見て回って、絵は全然上手くないのだけど、パッケージデザインが気に入った24色の水彩色鉛筆を買った。  歩き疲れて少し並んで、ひとりで流行りのカフェに入った。ひとりで飲食店に入ることなど今までなかったから、緊張して文庫本を気もそぞろに読んでいると、偶然、原田くんと会った。原田くんはわたしと同じテーブルを希望する旨を店員に伝えた。なんとなく恥ずかしくて、なんとなくほっとする。 「由芽ちゃん、ほんと偶然だね? 今日はひとり?」 「うん……うちからわりと近いからぶらっと来てみたの」  この間、秋穂ちゃんがおかしなことを言ったので、変に意識してしまう。 「何か買ったの?」 「色鉛筆。絵は描かないんだけど、文具が好きなんだ」  原田くんはにこにこしてブレンドコーヒーに口をつけた。 「あ、ここね、スフレが美味しいんだよ。(おご)るから食べてみて?」 「え、いいよ。自分で払うよ」 「そんなに高いものじゃないからさ」 「……じゃあ、今度また会ったときに学食でヨーグルト、奢るね」  彼は先日のことを思い出したらしく、くくくっと笑った。何だか居心地が悪かった。 「それこそヨーグルトのことなんて忘れちゃっていいのにさ、律儀だよね?」 「……そんなことないよ」  スフレは焼きあがるまで少し時間がかかって、わたしたちはその間、くだらないことをくすくす笑いながら話した。それはわたしに要のいる「普段」を思い出させてくれて、ふたりでいるのに、三人でいるような気になる。気持ちが少し緩む。  たわいもない話をしていると、バニラの香りがふわっとするスフレが運ばれてきた。 「奢ってもらうんだから、最初の一口はもらって?」  彼は遠慮したけれど、カスタードソースをかけたそのスフレを美味しそうに一口食べた。甘党なんだなぁと、頬杖をついてその光景を眺める。彼の、長いまつげが半ば伏せられるのをじっと見ていた。 「あのー、その後どう? 要、今日、一緒じゃないけど」  聞かれるのは当たり前だった。  わたしたちは別々の講義を取っているとき以外、いつでも一緒にいたからだ。  カフェの中は混雑していたけれど、ひとつひとつの席はゆったりしていたので良くも悪くもゆっくり話ができた。さっきまでと空気が変わる。 「要はね、今日はバイト(・・・)だって。お昼前には出かけちゃったの」  原田くんはその言葉の意を汲んだのか、一瞬、黙り込んだ。 「単発のバイトなのかもよ?」 「そうだね、そういうこともあるかもしれないね。……でも今日は、要の予定ではふたりの『思い出作りの日』だったんだよ」  わたしはにこり、と笑って見せた。空気が淀む。どんなに言い繕っても横たわる事実は大きい。  スフレを下からスプーンで(すく)い上げる。ものすごくもったりして、ものすごく甘かった。 「由芽ちゃん、変な意味じゃなくてさ、気晴らしにたまには僕と一緒に出かけたりしない? ほら、気分転換になるかもしれないし。何処かにご飯、食べに行ったり、由芽ちゃんの好きな文房具探しに行ったり……一緒に行きたいって言ったら、迷惑かな?」  原田くんは、みんなが丹精だというその顔ですごく真剣そうにそう言った。わたしの心の中は虚ろだった。どうして要がいなくなることが前提で話が進んで行くんだろう? 「ありがとう。すごくうれしいんだけど……要と本当にダメになったらお願いします。あと十二日なの。だからその日々を大切にしたいの。最後はふられちゃうのわかってるのに、バカみたいだよね……?」  原田くんはとても悲しい顔をした。もしかしたら、わたしの悲しさが彼にうつってしまったのかもしれない。 「そうだよね。まだ別れてないんだよね。じゃあ、今日1日は僕と一緒にいない? このビルの中を回ってさ。ぼくもここ、まだできたばかりだから全部は回ってないんだ」  わたしは少し考えた。  そして、それくらいなら「浮気」に入らないかもしれないと考えた。今更、操を立てる必要もないかもしれないけれど。  要が帰ってこない寂しさを考えると、ひとりでいることが恐ろしいことのように思えてきた。 「じゃあ、少しだけ」  原田くんはやっぱり気さくな人で、一緒に見て回っても歩く速さに気をつけてくれて、わたしを迷子にしたりはしなかった。  どちらかが気になったショップでも別々に見ることはなく、二人であれこれ言いながら買おうかどうか決めた。 「うん、似合うね」 と言われて、いつもは選ばないストライプのシャツを買った。わたしの持っているのは全て生成りか白だった。  ……柄付きなら、この間買った白のセーターに似合うかもしれない。柄付きなら、もう一人になってもソースの跳ねやシミに気を遣わなくてもいいかもしれない。  ビルを出るまでの間、何度も白のシャツとショップで交換してもらおうかと迷ったけれど、その考えは頭の中をぐるぐる回るばかりで結局、納得のいく答えは出なかった。 「いい買い物したね。今度あのシャツ、学校にも着ておいでよ。着てるところ見てみたいな。きっと似合うよ」  曖昧な笑顔しか作れなかった。  原田くんは申し分なくいい人だ。だけど、知らない人とつき合うということはこういうことなんだ、と思い知らされた。要じゃない人と今更つき合っても、肩が凝ってしまう……。  あのシャツを着たわたしを見たら、要はなんて言うだろう。きっと、「見慣れない感じ」って言うと思う。  甘いスフレを食べたらお腹がいっぱいになってしまって、何も食べる気がしなくなった。どうせ今夜は帰って来そうにない要のための夕食は作らないことにした。  そして思う存分、余った時間、ごろごろした。録ってあったテレビを見て、アプリで遊んで、……。  わたしなんて本当につまらない女の子で、要がいなければ掃除も料理もわざわざしない。洗濯物は明日洗えばいい……。  本当にちっぽけな存在だってことを、要の不在で思い知る。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!