十日前(由芽)

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十日前(由芽)

「要、今日はお弁当いる?」  いつもより早く起きて朝ご飯の支度を久しぶりにきちんとする。  今朝はスクランブルエッグにベーコン、グリーンサラダとトースト、ホットコーヒーだ。  そういう日常のことをきちんとこなすことで、現状を少しでも変えられたらいいな、と甘いことを考えていた。  例えば、大島さんのことがなくならなくても、約束の日までは穏やかに二人で過ごせるような。わたしの心のバランスのためにも、「日常」は必要だった。 「お弁当はいいや。朝ご飯、作ってくれてありがとう。いただきます」  もう数日、お弁当は作ってないし、一緒にランチを取ってない。大島さんと食べているらしい。それを知っていながら、「お弁当は?」と聞くわたしは、相当重い女だ。  わたしの方が学校に行きたくなくなってきた。  ため息をついて床に座りこむ。要と二年間暮らした部屋をぼーっと見る。この間買ってもらった小柄なガラスの靴は、テレビのわきに飾られている。この二年間のいろんな要を思い出す。  そして、昨日帰って来たときの要のシャンプーの匂いを思い出す。要はすぐにシャワーを浴びてわたしが気づかなかったと思っているだろうけど、シャンプーは質の良い強い香りがした。きっと、彼女の髪も昨日はあの匂いだったんだろう。  大島さんと会う度に、つまりうちに帰ってこない日がある度に、要は大島さんとそういうことをしてどんどんわたしから離れていく。  あんな計画表通りには全然、上手く行かなくて、加速度的に別れが近づいている。お願いだよ、わたしが見えないふりをしないでよ……。  学校に着くと秋穂ちゃんが席を取っておいてくれた。 「由芽、おはよう。なんだ、元気ないぞ」 「そんなことないよ」 「なんだよ、またあいつ、帰ってこなかったり?」 「帰って来たよ、夜中にちゃんと……」  秋穂ちゃんはぎょっとして、わたしをそっと教室の隅の方に座らせた。涙が滲んでいた。 「どうした?」 「もう、ご飯作ったり、しなくていいって。オレのことは気にするなって。ご飯の合数も……」  彼女はわたしが泣いている姿を他の人に見られないように気をつかいながら、話を聞いてくれた。 「ねぇ、それでもまだつき合ってることに意味があるの? 由芽がツラいだけじゃん? もうはっきり別れなよ。言いにくいなら一緒に行ってあげるし、森下だってそうなっても仕方ないって思ってるんじゃない?」 「そうなのかなぁ? 今すぐ別れてほしいってことなの?」 「それはどうかわからないけど……」  こんな風になっても、要の心変わりを信じられない自分に驚いた。そして遠い目で、自分はなんてバカなんだろうと思った。確かに秋穂ちゃんの言う通り、わたしたちはつき合ってるとはとても言えない。 「由芽、このままだと病気になっちゃうよ」  それはさすがに大げさだ。だけどそれに反比例して涙が鼻水と一緒にたくさん出て、ティッシュが自分の持っていた分だけじゃ足りなくなって秋穂ちゃんのを分けてもらった。彼女はカバンの中をがさがさ探して、たくさんのティッシュを分けてくれた。 「ただいま」  買い物袋を提げて帰ると、今日は要が先に帰って来ていた。 「バイトある?」 「ないよ」  内心ほっとして、手を洗って食事の支度を始める。  タラのホイル焼きときんぴらごぼう、小松菜と油揚げの味噌汁。  今日は要が出かけるとはあらかじめ聞いてなかったから、サボらず料理をしようと決めていた。臨時のバイト(・・・)もないようだ。きんぴらごぼうに香りづけに入れたごま油の匂いが、ぷんと部屋に漂う。 「要、ご飯できたよ?」  声をかけると彼はスマホを置いて、何も言わず席に着いた。一緒に「いただきます」をする。  アルミホイルを破ると、中からいい感じに火の通ったタラが出てきてほっとする。具は基本のタマネギとニンジンに、きのこを数種類入れた。要は特に好き嫌いがないので、料理をする方も楽しい。 「要のタラ、上手く焼けてた?」 「うん」  いつもはおしゃべりな要がほとんど口をきかない。……どうしていいのかわからなくなる。わたしに話せないことだらけになってしまったのか……? 「あ、この間、偶然ね、駅ビルのカフェで原田くんと一緒になってね……」 「うん」 「デザートごちそうになっちゃったの。今度、要からもお礼、言っておいてくれる?」 「……」  とうとう寡黙が沈黙に変わってしまって、食卓が小さく見えてくる。きちんと味見をしたきんぴらごぼうの味付けもわからなくなって、頭が混乱する。 「何か飲む?」  間が持たなくなった。 「なんでお前、『普通』なの? 何も言わないで外泊して、翌日も夜中まで帰ってこないなんて頭に来ないの?」 「……ごめんなさい」  怒られたことに驚いて、思わず謝ってしまった。要は怒ってるように見えた。 「オレは自分が作った計画を全然守らないし、まだ約束の日にならないのに、ちっとも由芽のそばにいてあげないじゃん? そういうことにムカつかないの?」  そんなことを言われても、と、頭の中では思っていた。そんなことを言われても仕方ないじゃない? 要にGPSでもつけて、常に監視する? それともストーキングして、彼女が近寄りそうになったら力づくでも引きはがして連れて帰ってくればいいの? そんなことをしたって、わたしの要はもう戻ってこないじゃない。心を捕まえておくことなんて、物理的に不可能じゃない。あと十日もすればどのみち捨てられるんじゃない……。  だから。  頭に来ても何も言わない。怒らない。ムカつかない。  要が守らなくても、わたしは十七日目の約束の日が来るまで、要の彼女として振る舞う。みんなに「そんなの無理だ」って言われても、最後の最後までちゃんと彼女でいたいから。  ……ああ、絶対に彼には見せないって決めてたのに、涙が出ちゃった。眼のふちに盛り上がってるのを感じる。 「要、怖い」  ティッシュで涙を押さえる。 「……大きい声出してごめん、悪かったよ」  要は大きなため息をひとついた。自分のしたことを後悔しているようだった。 「もし……もしまだあの計画表が有効なら、わたしはまだ要の彼女なんだよね?」 「……うん、そうだよ」 「じゃあさ……」  言葉にしていいものなのか、何度も気持ちが行ったり来たりする。恥ずかしくてとても彼の目を見ることができなかった。  でも、どうせ別れてしまうなら、言いたいことは全部、言ってしまった方がきっといい。 「じゃあ、抱きしめてくれる? いつもみたいに……」  彼の手がそっと躊躇いがちに伸びて、壊れ物を扱うときのように恐々(こわごわ)とわたしの体に手を伸ばした。緊張が伝わってくる。それでもやっぱり、腕の中にいるとその温もりにいろんな心配事がなくなっていく気がした。  彼の手に少し力が入る。欲を言えば、以前のようにがばっと抱きしめてほしかったけれど、そうできないほどわたしと彼の距離は遠くなってしまった。自分から、彼の頬に頬を寄せた。それが彼にもわたしにも精一杯だった。 「ごちそうさま」をして、要はお風呂に入った。  わたしはその間に食器を洗いながら、告白されたあの日のことをまた反芻して思い出していた。  焦げそうに熱い日差し、要の持っていたペットボトル。「哲学一」のテキスト。  ……わたしに駆け寄る要。  要の前で本気で泣いたら負けだと思っていた。我慢勝負だ。だから、一生懸命がんばっていた。  秋穂ちゃんの言う通り、早く、できるだけ早く、別れてしまったほうがいいのかもしれない。どうせ事実上、別れてしまっているようなものなんだもん。  別れたときは切り裂かれるように心が痛んでも、それは少しずつ癒えていくんだろう。  どんなにがんばったって、「悲しみ」という名の亡霊がわたしを追いかけてきて、いつか本当に捕まってしまう。その前に……。  そこまで頭の中で考えを巡らせたところで、要がお風呂から上がる音がした。早く終わらせなくちゃと気が急いて、手が滑ってお皿を一枚、割ってしまう。ガシャン、と派手な音がする。 「由芽、割れたの? 手、切らなかった?」  彼が急いで体を拭く音がする。まだ心配してくれるんだなぁとうれしくなる。指からは鮮血が流れていて、その指を要が持ち上げた。 「ああ、やっぱり切ってるじゃん。カットバン、持ってくるよ」  丁寧に手当てをしてくれる要を見て、やっぱりこの人がすきだな、と思う。心が温かくなる。 「ありがとう」  わたしはバカな女だ。もうこんなに心が離れて、他人のような人なのに。  気づかれないように頬を寄せて、屈んでた彼の匂いをそっと嗅ぐ。わたしと同じシャンプーの香りがした。 「痛かった?」 「もう大丈夫だよ、手当ても早かったから」  彼は、わたしの目をちらっと見てから、言いにくいことを言うときの顔をした。 「由芽さ……まだオレのこと、好きなの? オレ、最低じゃない?」 「最低になっても要は要だよ」  そうなんだ。最低になったとしても、あの暑い日に好きになったその人は要以外の誰でもない。要が要だから、わたしはまだ彼が好きなんだ。 「信じられなくて当然だと思うけど。オレも由芽のこと、まだ好きだよ。自分でも狡いと思うよ。……ごめん、やさしくしてあげられなくて」 「ううん、好きでいてくれてうれしいよ。……十七日目まで、よろしくお願いします」  その晩は同じベッドで抱きしめてくれた。でも抱いてはくれなかった。
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