十七日前(由芽)

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十七日前(由芽)

 わたしこと汐見由芽(しおみゆめ)森下要(もりしたかなめ)がつき合い始めてから、ちょうど二年が過ぎた。  要とわたしは今日から十七日後に別れる。  そのとき、わたしたちはキャンパスのベンチで、わたしの作ってきたお弁当を食べ終えたところだった。わたしは二人分のお弁当箱の片づけをしていたので、一瞬で過ぎたその言葉の意味を汲み取れず、「え?」と聞き返した。言葉は、心の中を通り過ぎた。 「だから……別れてほしいんだ」 「……そうなんだ」  今となってみればそんな返事はなかったんじゃないかと思う。味気ない。  けれどとにかく突然のことに焦っていたし、心の動揺を要に知られたくなかった。  要はわたしが大仰な反応を示さなかったことが少し気に入らなかったようで、下を向いて黙っていた。  それでもわたしは、まるで普通の事(・・・・)のように彼の言葉を聞き流した。そう、まるで夕飯に出したおかずを、嫌いなんだ、と言われた程度に。 「他に好きな人ができたんだ」  それが本当の理由なんだと思うと、胸がぎゅうっと締まるのを感じた。つまりわたしじゃダメってことなんだ。  好きな人との別れはツラいと聞いたことはあるけれど、わたしにとって要が初めての恋人だったし、こんなに呆気なくわたしたちが終わるとは思っていなかった。  別れ話がわたしに与えた痛みは、たまにする想像よりずっと重くて大きかった。 「……うちのゼミの大島さん、知ってるだろう? 彼女とつき合うことになった。この間のゼミの飲みのとき、その……」  要は何かを口ごもった。ああ、この前の連絡もなく外泊してきた日のことかな、と思うと同時に、その続きはあまり聞きたくなかった。想像だけでも拷問のようだった。でも聞かないわけにいかなかった。 「大島さんと、寝た(・・)?」 「うん……」 「彼女とのセックスが良かったんだ?」 「ごめん、悪い事をしたとは思ってる」  涙が出るかと思った。目の縁に、じわじわと水気を感じる。  例えば、彼から突然別れを切り出されたらどうしようって不安になることは誰にでもあると思う。そのとき、わたしは泣くだろうと思っていた。でも頭の中は冷静で、涙は不思議と一滴も落ちてこなかった。  大島さんこと大島玲香(おおしまれいか)さんはいわゆる華のある美人で、学内でも評判の人だった。  要とは同じ学科で同じゼミだ。  すらりと伸びた手足と日本人離れした顔立ち、堂々と、同じように派手な友だちと一緒にいつもキャンパスを歩いている。  わたしなんか話しかけることもできなければ、まして同じ土俵に上がることができるわけがない。比較して勝ち目がある、とは考えられなかった。 「そっか、じゃあお弁当、明日からいらないよね。 今日からもう自分の部屋に帰る?」 「由芽(ゆめ)はいつがいい?」 「わたしはいつでも……」  いつ、と言われても、捨てられたのはわたしの方だ。選択権は要にあるように思えた。  彼は不意にスマホを取り出すと、何かのアプリをインストールし始めた。 「別れるなら、二年もつき合ったんだしせっかくだから計画的にきっちり別れよう。乱数を作れるアプリ、落としたから。別れるまでの日数は、七日から三十一日の間でいい?」 「あ、うん……」  いますぐ別れたりするものじゃないんだ、と要のスマホをのぞいた。最低でも、七日はまだ一緒にいられる。  要の、わたしより長くて少し太い指先が、画面に触れようとしている。要はじっと、わたしの目を見つめた。 「押すよ」  なんのためらいも同情もなくスマホには一瞬で「十七」の文字が表示された。――こうしてわたしと要は「十七日後」に別れることになった。素数というのは、ある意味、キリが良かった。   「何それ? なんで由芽がそんな思いしなくちゃなんないの⁉」  午後の講義の教室で、親友の秋穂(あきほ)ちゃんは大きな声を上げて、わたしを驚かせた。 「もう! 大体、由芽は大人しすぎるんだよ。わたしから森下に直接言ってあげようか? それとも大島さんに言ったほうがいいかな? たった一回ヤったからって別れる? 二年もつき合ってるんだよ? 森下も大島もどうかしてるよ。大体、乱数とか、理系のヤツの考えることは意味わかんない」 「ああ、そう、ヤったんだよね……」  秋穂ちゃんは、「しまった!」という顔をした。もちろんわたしだってよくわかっていた。一回ヤっただけでわたしと別れるほど、彼女の体は魅力的なんだろう。大島さんのモデル体型が見掛け倒しなら、要だって「別れよう」とは思わなかったんじゃないかと……。  彼女の派手な造りの顔が、目の前に浮かんだ。 「そっか、それで? あんたたち、一緒に住んでるじゃない?」 「んー、わかんないけど別れるまでが十七日で、その間のいつ引っ越すかは帰ってから決めようって」 「十七日! 何でそんなに微妙な日数なのよ。そんなの受け入れなくていいから。由芽も現実、よく見なよ。別れるなら今すぐ別れればいいし、別れないって選択肢もあるんだからね。駄々こねてみると、意外と上手くいくこともあるよ。『別れたくない』ってきちんと伝えなきゃ」  別れたくないって伝えてみるのは確かにありのような気がした。わたしは絶望の縁にいて、そんなことは思いもよらなかったから。  すがりついて泣くことは、わたしのちっぽけなプライドを傷つけたりはしないだろう。帰ってきてくれることが一番なのだから。  でも、わたしにはいつも自信に満ち溢れてキャンパスを歩く、美しい大島さんに勝てる自信は全くなかった。彼女を蹴飛ばして、要が帰ってきてくれるとは信じがたかった。わたしだってもしも男なら……。  秋穂ちゃんは講義の間も時折、わたしの様子を気にしてくれた。大丈夫、秋穂ちゃん。わたし、まだ泣いてないから……。 「十七日間の計画」  十七日前(今日)……別れる計画を立てる  十三、十二日前(土日)……思い出作り  六日前(土)……要が出ていく日  一日前(木)……別れる日  その壁に貼った素っ気ない計画表を、わたしと彼はふたりで過ごしたわたしの部屋で決めた。少しずつ、段階的に別れたほうがお互い離れがたい気持ちも断ち切りやすいだろうし、要の物質的な引っ越しもしやすいだろうという考えのもとにそれは決まった。  離れ難い気持ちがもしもまだ要にもあるなら、どうして別れなくちゃいけないんだろう、と上手く飲み込めない。どの辺が別れ難くて、どの辺がもう一緒にいられないんだろう?  要がカレンダーとにらめっこしている間、わたしは夕飯の支度をした。帰りに買い物してきた食材で、ブリの照り焼きと里芋の煮っころがし、小松菜のおひたしを作った。具体的に「十七日」と言われると何かの脅し文句のように思えて、つい品数が増えてしまう。  ……本当のことを言えば、「わたしの味」を要に覚えていてほしかった。別れても、同じ料理を見たときにわたしを思い出してほしいと思うのはわたしの弱さだ。 「腹減ったー。お、今日は和食じゃん。由芽は和食、得意だよなぁ。玲香は……」  はっ、という顔になって、ふたりで気まずくなる。そこでわたしから話を切り出した。 「あのね、おかしいかもしれないけど、大島さんの話、普通にしてくれていいよ。デレてくれても構わないし」 「いや、それはさすがに由芽に悪いし……」  悪いも何も、隠されていたほうが余計に気になるし。わたしは必要以上ににこにこして見せた。 「……あー、大島さんは料理、全然できないらしくて」  そうだろう、要のゼミに用事があってたまたま彼女を見たときに、彼女の爪にはすごいネイルが施されていた。真っ赤なネイルに、光るストーン。あれでは手袋をしてもお米が研げるのか怪しい。  けど、その美しい彼女の爪を要は愛しているのかもしれないので、わたしは何も余計なことは言わない。 「そうなんだ。今、そういう子、多いらしいよ? ほら、わたしは貧乏性だからさ、自炊してるだけで」  要はいつも通り何も言わずに冷蔵庫からビールを出して、席に着いた。 「そんな人の何処がいいの?」とは、とても聞けなかった。  その晩、わたしたちはいつも通り同じベッドで寝て、まるで何もなかったかのように要はわたしを抱いた。それまで毎日してた(・・・)わけではなかったし、「こんな状況になってもまだわたしを抱くんだ?」とちょっと驚いた。  要の腕の中で、よく知った、馴染んでしまった唇がそっとわたしの唇を探し求める。そのわたしより少し固めの唇を、ほんの少し口を開いて拒まずに受け入れる。彼は慣れているわたしの中に難なく入ってきて、すべてはいつも通り。 「彼女のセックスはわたしのとどう違うの?」と聞きたかったけど、とても聞けなかった。  大島さんとするときはどんなんなのかなぁと意識がそっちにばかり向いて、抱かれていてもちっとも集中できなくて、自然に涙がこぼれた。  顔を覆って涙を隠していると、要はわたしが感じていると誤解したらしく、やさしく髪を撫でられた。けれど、そうじゃないんだと言えず……、感じているふり(・・・・・・・)をした。  要は満足そうに事の後に眠りに就いた。でも、最中に「愛している」とは決して言ってくれなかった。「愛している」という言葉は、わたしがぼんやりと日常を送っている間に風でどこかに吹き飛ばされてしまったんだろう。  隣に寝ている要にバレないように、声を殺して朝まで泣いた。
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