十六日前(由芽)

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十六日前(由芽)

 別れることが決まっても、いつも通りの朝を迎えた。  いつもと同じ。  目覚めると要はもう起きていて、寝起きが悪いわたしにコーヒーを入れてくれる。そうして自分は遅刻してしまうと言いながら、笑って先に学校に向かった。  その日の天気は降るか、降らないか、というところだった。  お昼に要と図書館前の自転車置き場で約束して、彼の姿が見えるとわたしは小さく手を振った。要もそれに応えるように息を切らせて走ってきた。 「ごめん、ごめん。講義が長引いちゃってさ」 「大丈夫だよ、わたしは休講で二限から来たからゆっくりお昼作る時間があったんだ。サンドイッチ作ってきたの。場所があれば何処でもすぐに食べられるよ」  要は素直に喜んだ。まるで遠足のお弁当の時間を迎えたような、子供のような笑顔。お弁当ひとつでこんなに笑顔になれるなら、わたしの居場所は要の心の中にまだ少しはあるんだなぁと感じて、と同時に、それならわたしじゃダメなのかな、と思う。これまでもそうだったし、これからもお弁当くらい、毎日欠かさずがんばって作るのに。  お弁当の包みを開くと、古典的なおかずが入っている。要の好きな甘い玉子焼き、ウインナー、唐揚げと(いろどり)にブロッコリー。  ふたりでやっと座れるサイズのレジャーシートを開いている間、要は何処か違うところを見ていた。ぼーっと眺めているその視線の先を目で追う。  ……視線の先には大島さんがいた。大島さんは離れていても要を見つけて、軽く手を振って通り過ぎて行った。いつもと同じく彼女は、彼女とよく似た派手な友だち数人のグループで歩いていて、中には男の子の姿も混じっていた。それを見た要が、今にも彼女のところに走って行ってしまうんじゃないかと不安になる。と同時に、「ああ、ふたりは本当に特別な関係なんだな」と確認してしまう。  膝の上にはふたり分のお弁当が、急に行き場がなくなって取り残されていた。膝の上が急に冷たく、重くなる。わたしには彼を喜ばせたいと思う資格さえもうないのかもしれない。  彼女は今日はスレンダーなワイドパンツを履いていた。  背の高い彼女が着ると、生地がすとんと落ちて美しい。そして、女としては妬ましい。わたしだって身長があれば……。  でも仮に身長があったとしてもやっぱり彼女のような派手な笑顔は作れず、わたしは結局、地味でつまらない女の子のままだろう。大輪の、開いたバラのような彼女を手に入れてうれしいと思う要の気持ちはわかる気がした。  でも、こっちを見て。わたしを見て。まだここにいるから……。 「ただいまー」 「おかえり」  タオルを持ってバイト帰りの要を迎える。弱い雨が降ったり止んだりで、傘をさしてはいたけれど要からは雨の匂いがした。 「さんきゅ」  彼が濡れた肩や頭を拭いている間、彼の半分濡れたパーカーをハンガーに干した。……いつもならその着古したパーカーの背中に抱きついて、おでこをつけて、思いっきり雨の匂いに包まれているところだけど、今日はそれも憚られた。わたしの方から何故か彼に距離を感じる。 「シャワー、いいかな?」 と彼が言ったので、 「どうぞ」 とキッチンに向かった。  まだ夕飯の支度の途中だった。残りの日にちが減っていくと思うとそれはすごいプレッシャーで、今日も念入りに料理をしてしまう。  今日のメニューはオニオンスープとポテトグラタン、それからハンバーグ。今月はエンゲル係数が高くなりそうだ。 「今日は洋食だね」 とシャワーを浴びてきた要が言う。 「オレ、そのグラタンすきだよ」  それはそうだ。ふたりで過ごした二回のクリスマスは二回とも、このグラタンを作った。それを簡単に忘れられたくない。バターと小麦粉と牛乳で、一からベシャメルソースを作った。  別れてしまえばいつか、市販のマカロニグラタンが彼の中で当たり前になるのかもしれない。マカロニとソースがひと鍋でできるような。 「グラタン食べたときのこと、覚えてる?」 「覚えて……あ、キッチンで料理してる由芽の代わりにオレがケーキとチキン、買いに行ったんだよね?」 「そうそう」 「最初の年はよくわかんなくて、先にケーキを買っちゃって、人も多かったからケーキ崩さないように持って帰るのが大変だったんだ」  その日のことは昨日のことのようによく覚えていた。 「あのとき食べたケーキ、美味しかったね」 「どっちの?」 「つき合って最初の年の、チョコクリームのやつだよ」 「ああ、小さいサンタさんが載ってて、『子供みたいだね』って笑ったやつだ。由芽が、『大人っぽいのもあったでしょう?』って言って、どうせだからキャンドルいっぱい挿したの覚えてるよ」  彼の記憶の中にも、わたしと過ごしたクリスマスがまだ残っててくれていることが、うれしい。  ここまでの話を聞くと、まるで会話が盛り上がり親密な空気に満たされた感じがするが、実際はそんなことはなかった。会話がうわ滑って、お互いにもうそんなクリスマスは二度と来ないんだと強く思い知る。  ふたりで夜のニュースを見ながら、ビールをちびちび飲んでキスをする。  二回、三回と重ねる度に、その感触が欲しくなって唇を求め続ける。そしてなぜかそのひとつ、ひとつに何か大切なものがこぼれていく気がして、またひとつ、ひとつ掬いあげる。  掌から掬い上げた思い出は、簡単にこぼれ落ちてしまうので急いでまた追いかける。  思い出深いラグマットの上に、彼はそっとわたしを押し倒した。時が止まったように見つめ合う。  今日も『思い出作り』の一環なのかな、と突然大きな袋をかぶされた時のように、目の前がブラックアウトする。  気持ちがいいとか悪いとかそういうことの前に、わたし以外の人を抱いた彼が、わたしを抱こうとしていることが怖くなる。……そんなマイナスな気持ちでいることを、知られたくない。  わたしの胸の間に彼の頭があるとき、ちょうど彼には見えないタイミングで涙がすーっと頬を伝った。  この人はもうわたしのものじゃないんだなぁ、と思う。瞳にたまった涙は決して彼には見せなかった。  ……大島さんとは、どんなキスをするんだろう? いちいち比べていたら毎日を暮らせないのはわかってるけど、比べずにいられない。  わたしは彼を縛れない。だから、何処でどんなことをしているのかわからない。  ひょっとすると使われていない空き教室や、人通りの少ない廊下の奥で、あの美しい唇に唇を重ねているのかもしれない。  ……してないかな?  要は人の目を気にする。ということは、誰にも見られないところでそっとするわけだ。  彼女の上げる声が耳元をかすめた気がして、一瞬、体がびくっとなる。要がわたしの頭を「大丈夫だよ」と撫でる。  いつも通りの顔を作る。そして彼の顔を見上げる。自分から強く彼の肩の辺りに腕を回して思ってもみないのに、 「もっと強く……」 と呟いた。  そんなことを言ったのは初めてだった。  わたしの「初めての人」は要だった。  だからいつも要がリードしてくれて、わたしは受け身だった。女は従順であることが求められているのかと思って、喘ぎはしても言葉で自分から促すことはなかった。  わたしの発した言葉に刹那、要は動きを止めたけれど、時計の針が一瞬止まったように見えてまた一秒を刻むように、直ぐに間を置かず彼は動き始めた。  女にリードされるのは彼の気に入らないことかもしれないけど、どうせ別れてしまうのなら、今までしないでいたことをしてみてもかまわないのかもしれないと、そう思った。 「止めないで」 彼は何も言わずに呼応する。 「止めないで、お願い」 言葉は吐息に引き裂かれるように掠れて、上手く届いているのか判然としない。 「明日なんだけど」 「うん?」 「……お昼は友だちと約束してるからさ」 「あ、お弁当はいらないのね? わかったよ」  そういうことは度々あった。逆にわたしが友だちとランチに行くこともあった。  だから――変な勘繰りはやめよう。少なくとも今夜は、そのことは忘れて寝てしまおう。わかってるのは、明日は少し寝坊ができそうだってことだけ。
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