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Episode2 鯨の骨は響く
誰もいない、どこかにいきたかった。
その廃墟を訪れたことに理由があるとすれば、ただそれだけだ。気紛れといってもいい。
ようするに疲れていたのだ。
森の奥に工場跡があるという噂は聞いていた。
普段から通っていた国道を逸れて、自転車で雑木林を進んだ。夕暮れをひかえてもまだ蝉はうるさく騒いでいる。鼓膜が痺れるような音だ。道幅はどんどん細くなり、倒木や石が増えてきた。諦めて落葉松の根方に自転車を置き、草叢を掻きわけて轍の跡を踏んでいくと、急に雑木林が途切れ、大きな建物が前方に現れた。
コンクリートと鉄骨で造られた、無機質な廃墟だ。
ふり仰ぐほどの大きな建物が人に棄てられてなお無言で建ち続けている様子は、なにか巨大な生物の死骸を彷彿とさせた。どうしてか、こんな森のなかに打ちあげられてしまった鯨の骨が、赤錆びて横たわっている。
いつの間にか、あれだけ賑やかだった蝉が静まりかえり、死のにおいを漂わせた静寂がその場に鬱蒼と立ち込めていた。
草を踏む自分の靴音だけが耳障りに響いては、静寂に吸い込まれていく。
工場跡の壁は剥がれ、崩れ、青々とした蔦に覆われていた。赤い根を無数に喰いこませて蔦はどこまでも伸長している。天井を突き破り、木が育っていた。緩慢に、だが確実に自然へと還っていく人工物の骨格。いつ閉鎖されたのか。なにを製造していたのか。すべてが撤去され、外郭だけが残されている現在では、想像もつかない。
壁が崩れているので、どこからでも内部に侵入できる。瓦礫を跨いで、俺は廃墟のなかに踏み込んだ。
緑と錆に侵食された鯨の体内。がらんとしているが、折れた鉄骨から垂れさがる蔦が視界を遮る。腕で払い、くぐり抜けた。そうして視界に入ってきたものに一瞬、目を疑った。
誰もいないはずの廃墟のなかに人がいた。
男だ。制服は着ていないが、おそらくは俺とおなじくらいの歳。彼は木製のイーゼルを立てて、絵を描いていた。ばきりと俺の靴が瓦礫の破片を踏み抜く。その音に驚いた様子もなく、ゆっくりと人影が振りかえる。
一瞬、石膏の彫像かと思った。
或いは、幽霊かと。
すっと通った鼻筋に猫のような目のかたち。日暮れの陰影が薄絹のように被さった頬。産まれてこのかた、日に曝されたことがないのではないだろうかと疑うほどに白い肌。体格は不健康に痩せていて、肩幅だけみれば女みたいに華奢だ。かといって、教室の隅で教科書に齧りついて勉強だけに執心するお堅い学生みたいな、貧相さはない。痩せぎすの、その輪郭はなぜか柔い。そうして、どこまでも透きとおっている。
あ然とする俺をみて、男は微笑んだ。
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