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「やあ」
不思議な響きを持った声が、静寂にぽかりと漂った。
声変わりを経ずにおとなになったような。遥か遠くから響いてくるようで、鼓膜の側で囁かれているような。
親しみすら滲ませて掛けられた声にどうかえせばいいのかわからず、俺はただ突っ立っていた。
「いいところだろう? 静かで、暗くて、何にも侵害されない。あたりまえか。ここはすでに終わった場所なんだから」
彼は腕を広げて、廃墟と青く繁る樹木の天蓋をふり仰ぐ。
つられて、俺も視線を持ちあげる。
苔と蔦に覆われた幹。奔放に伸び続けた枝は、天井ぎりぎりにある横長の窓を突き破っている。とはいっても、さすがに枝が窓硝子を割るはずはない。一昨年あたりにひどい嵐があったので、その時に割れたのだろう。窓枠に乗った空の巣は住宅地から盗んだとおぼしき針金のハンガーで出来ている。
折れて宙ぶらりんになった鉄骨に巻きつく蔦からは、盛りを終えた花の残がいが垂れさがっていた。秋になれば、種を結ぶのだろうか。それとも、このまま枯れるのだろうか。
そんな朽ちた鉄と葉蔭の額物から降りそそぐ、白い黄昏。床に落ちては割れた硝子の破片にあたって、拡散し、コンクリートの壁に白濁が散る。濁った万華鏡。霞んで遠い光が、何故だか優しい。海の底から、地上を眺めているみたいだ。
「なんの意味もない場所だ。あらゆる価値をはく奪されて久しい場所。後はただ、緑に還っていくだけ」
俺が黙っていても、男は気にすることもなく喋り続ける。
酔いしれているようでいて、言葉の端々は冴えていた。
「ひどく落ち着くと思わないか。気持ちがやすらかになるといってもいい。緑と鉄くずと、曖昧な光のなかにたたずんでいる時、僕らは確かに自由だ。呼吸することにも、指を動かすことにも、なにひとつの意味もなくて、いい」
「どういう意味だよ、それ」
なんとかそれだけ、言葉にする。
男は笑った。
「どういう意味もないんだよ」
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