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男はこちらに近寄ってきた。磨かれた革靴がぱきんと割れ硝子を踏んだ。彼は気にとめない。ぱきぱきと硝子を割る音をひき連れて、彼はゆっくりと俺の側に踏み込んでくる。
「君も疲れたんだろう? 意味を持たされることに」
声が響く。遠く近く。
「だからここにきたんだろう」
「……、そうかもしれない」
現実から逃げたかったわけじゃない。逃げ続けるだけの勇気も、すべてを棄てる気概もない。現実のなかでしか暮らしていけないことはわかっている。ただ、ほんのちょっとだけ、息を吸う間だけでも。
「どこかにいきたかったんだ。誰もいない、どこかに。誰も、俺を俺だと知らないところに。たぶん、俺であることに疲れたんだと思う。誰かの認識のなかの俺であることに」
ぐったりと瓦礫に腰掛ける。無意識に顎に手をやった。掻こうとして癖になっていることに気がつく。所在ないとつい、顎に指を掛けてしまう。
落ち着いて息を吸うと、草いきれでもかき消せないほどに強い絵の具のにおいがした。そういえば、こいつは絵を描いていたのだと思い至る。彼の指には、いまだ画筆が握られていた。
「僕はここで絵を描いているんだ」
「ああ、それか」
木製のイーゼルを指差すと、彼は頷いた。
「そう、なんの意味もない絵を描いている」
ここからでは画布カンバスの裏側の木枠が見えるばかりで、彼がどんな絵を描いているのかは見えない。彼は「君になら、みせてあげる」と絵の表側に俺を誘った。興味がないわけではなかったので、彼につられて画布の表にまわる。
――――息を呑んだ。
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