Episode2 鯨の骨は響く

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 描かれていた絵が、あまりにも凄いものだったからだ。凄い、というよりは凄まじいというべきか。美術には詳しくないし、絵画なんてせいぜい有名な古典画家の絵をいくつか知っている程度だ。それでもわかる。彼の絵は凄まじい。    黒い風景画だった。  黒地に立ち枯れた木々が描かれているのだが、その木々がことごとく叫んでいる。とがった枝の先端から、乾いた幹の質感から、それが見て取れる。悲嘆か。絶望か。憤怒か。それでいて、木々の雄たけびは静かだ。大地を割ることもなく、空を落とすこともなく。背景に渦を巻いた雲からは、一縷の青い絵の具が流れていた。曇天の裂け目から青空が覗いているのか。木々の絶叫に涙を流しているのか。あるいは血を、流しているのか。ただ漠然と、濡れた青だ。  一枚の絵画にこれだけ圧倒されたことはない。  木々のひずんだ反響が聴こえてきそうで、俺は耳を塞ぎたくなった。  青ざめた木が根を張る大地には、一頭の鯨が打ちあげられていた。どこから漂流してきたのか。乾いた大地に放りだされた鯨は静かに、ただ死を待っている。ただ、死を待っている。  なんとか視線をひき剥がす。    絵は、廃墟のあちらこちらに飾られていた。    「凄い絵だな」  他にどんな言葉も思いつかなかった。綺麗だともこわいとも思ったが、そのどれもが適切ではないことはわかっていた。  彼はにっこりと笑い、絵の具の乾き具合を確かめるように画布の表に指を乗せた。 「夏のあいだに描けるだけ描くつもりだ」 「いまでいくつ、描いたんだ」 「十二枚。これを書き終えたら、十三枚だよ」  朽ちた工場跡にならべられた絵画の群。それらはあまりにも場違いであるはずなのに、風景によく馴染んでいた。  荒廃した風景ごと、彼の芸術のようだ。 「他の場所で描いた絵には意味がつけられてしまうから」  彼はそれをひどく悲しいことのように語る。 「意味っていうのはつまり価値だろ。絵なら、価値がつく方がいいんじゃないのか」 「そうだね。必要なものだ」  否定はしなかった。 「絵筆を握り続ける為には、価値のあるものを描かないといけない。それが現実で。けれど僕はそれをわすれたかった。なにひとつの価値も、意味もない、絵画を描きたかった」  色素の薄い瞳をすがめて、彼は薄く微笑んだ。長い睫毛が痩せた頬に影を落とす。 「夏が終わって、僕がここを離れても、ここにある絵画はそのままにしておくつもりだ。嵐に曝され、じけじけと憂鬱な秋を越えて、冬を迎えれば雪も降る。野ざらしの画布カンバスなんて春を待たずに朽ちるだろうね。それでいい。それがいいんだ。誰にも知られず、朽ちていければ、僕は嬉しい」 「それは」  想像する。  これらの絵画が、朽ちる様を。    九月。  一ヶ月程度ならば、さほど変わらない。絵の具のにおいを嫌って、鹿などの動物が近寄ってくることはないはずだ。  十月。  秋も本番になり、埃の積もった画布に落ち葉が被さる。落葉松の嵐は絵画の表に張りついて、乱雑な落書きを施すだろう。幾筋もの細い落葉は筆の跡に似る。やがて夏を終えてもまだまだ勢いの衰えない蔦が木製のイーゼルに絡みつき、赤い根を喰いこませる。季節はずれの台風がきても、その硬い蔓は最後までイーゼルを大地に繋ぎとめてくれるはずだ。  秋雨前線はあざやかに描かれた風景を霞ませる。乾いた絵の具は水を弾くが、数えきれない雨筋が画布を伝えば、劣化は避けられない。雨が亜麻の繊維に浸み、裏側に黒いしみが浮かびはじめる。黴だ。黒い斑紋は侵食し続け、ついに絵の表にも及ぶ。  十一月。  冬になれば、寒さにやられてとうとう絵の具が罅割れる。雪はさほど積もらないだろうが、脆くなった絵画には霜ですら大敵だ。その頃には剥落した絵の具のかけらが、割れ硝子や落ち葉と一緒に散乱しているかもしれない。はらはらと、色彩の破片が木枯らしに吹かれて巻きあがる。  緩やかに朽ちていく絵画。誰の審美に曝されることもなく。    そうして、ようやっと、彼の芸術は完成する。  とても無意味に。 「………………いいな」  ぽつりと、言葉が零れた。  きっと凄く、美しいだろうと思った。  知らず、笑みすら浮かべていたのだろう。彼は俺を見つめて、嬉しそうに頷いた。異境の土地でやっと言葉の通じる相手を見つけた、放浪者の表情だった。
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