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「鯨」
飾られた絵画すべてに描きこまれた白い身躯を指差す。都会の夜景に、枯れた大地に、星の瞬く夜の帳に、鯨は物言わず横たわっている。それらの異境に鯨が従えるべき潮波はなく、王者の風格を残しながらも孤独に息絶えようとする鯨の姿からは、憐れむこともおこがましいほどの悲愴が見て取れた。
「好きなのか? 嫌いなのか?」
「どちらだろうね」
こまったように彼は肩を窄める。
「それなら尋ねたいのだけれど、君は君のことが好きかい。それとも嫌いかい」
「ちょっと待てよ。いまの質問とそれに、どういう繋がりがあるんだよ」
「おなじことさ。君が君自身を好きか、嫌いか、断じられないように、僕はこの鯨を好きとも嫌いともいえない。確かなことは、僕が筆を走らせているとこの鯨がかならず打ちあげられる」
芸術家のいうことはよくわからない。もっと言えば、彼の言っていることで理解できたと想えたことはひとつもないのだが、なぜだか伝わってくる。彼の失意。彼の倦怠。それは、俺の疲労とおなじものだとわかる。おなじかたち、におい、濁りをたたえたものだとわかる。
彼もまたそうであろうということも。
「あんたは」
「僕は誰でもないよ」
問いかけはかたちにするまでもなく否定される。
「君は、誰かなのか」
意味のある、なまえがあるのかと、尋ねかえされる。「俺は」と言いかけて、ああ、違うと考えなおす。
「俺も。誰でもない」
すとんと、俺の発した言葉が、鼓膜ではなく瞳のなかに落ちてきた。
そう思ったのは一瞬で、実際には日が傾いて廃墟が影に落ちただけだった。相手の顔が影に覆われて、表情ひとつ汲み取れなくなる。俺の言葉を受け取って、どんな顔をしたのか。安堵したのか。笑ったのか。空にはまだ昼の名残があるのに、無秩序に繁る枝葉のせいか、地上は布でも被せたみたいに暗い。
こんなに暗くなってしまって、帰り道はわかるだろうか。
急に置いてきた自転車のことが気にかかり始めた。
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