Episode3 だから俺たちは無意味な話をした

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Episode3 だから俺たちは無意味な話をした

「社会の歯車って言葉を知っているかい」  前触れもなく、彼がそんなことを言いだす。いや、彼の言葉に前置きとか脈絡があった試しがない。 「あんた、俺のことを馬鹿だと思ってないか?」 「そんなつもりはなかったのだけれど……気に障ったのなら、謝るよ」 「いや、実はいうほど気にしてない」  あれから俺は幾度となくこの工場跡を訪れ、彼はかならずそこにいた。  繁る枝葉と錆びた鉄にかこまれて、彼は絵を描き続けていた。知らずに打ち解け、夏も中頃に差し掛かるいまでは、こんなふうに気兼ねなくたわむれられるほどにまでなっていた。彼の散漫な会話にも慣れていたし、適度な沈黙にも気まずさを感じることはない。俺は文庫本を片手に、彼は画筆を握って、無意味な時を過ごす。 「社会の歯車と言えば、否定的に受け取られがちだ。けれど人の本能は、常に歯車であろうと働き続けている。人は役割に準じることでみずからの価値を認識する。ふだをつけられることで満たされ、ふだをつけることに安堵する」  そう語る彼にも、それに頷く俺にも、等しくふだはついている。   「歯車ではない人間なんてどこにいるというのだろうね。どんな落伍者であっても、ふだはつくものだ。社会の役には立たずとも。命があって、社会に管理されている段階で歯車であることに違いはない。逆に言えば、どんな偉人だろうとしょせんは歴史の歯車にすぎないんだよ。クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見しなくても、やがては他の誰かがその偉業を遂げただろう。ビートルズがいなくとも、いつかはそれにかわるロックバンドが現れた。もちろん、ヘイ・ジュードやレット・イット・ビーが歌われることはなかっただろうが」 「前者はともかく、後者はファンからすれば、かわりが利かないんじゃないのか。ビートルズの不在は音楽界においては大きな損失だろう」  俺が嘴を挿むと、彼はこまったように髪をかきまぜた。 「ああ、そうじゃないんだ。僕のいっている、かわりがないというのは前提からの話だ。はじめからビートルズがいなければ、その喪失を嘆くものはいない。ヘイ・ジュードの旋律を恋しがるものもいない。そういう話なんだ」  目のない深海魚が、視界というものの欠落を嘆くはずもないように。喪失は、存在があってはじめてに喪失たりうる。 「考える歯車か、考えない歯車か。違いがあっても、その程度のものだ」  喋りながらも画筆を握る指は細かく動き続けている。青に、紫に、緑に、筆の先端が移ろう。透明な硝子瓶に満たされた水に画筆をつけると、ぶわっと彩が拡がり、雑ざり、渦を巻く。雑ざりすぎた絵の具は黒になる。それが俺には納得がいかない。これだけ綺麗な絵の具が、なぜどす黒く変わり果てるのか。
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