Episode3 だから俺たちは無意味な話をした

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「僕らは、ふだの提げられた歯車のなかにいるんだよ。廻り続ける。一生を掛けて。死に絶えるまで廻り続ける。そのことに意味なんて言葉を宛がえてみせる、人生の意味だなんて綺麗な言葉を。嘆くべきは、その歯車のなかにいるのが僕じゃなくても、君じゃなくても、構わないということだろうか。いや、違う。嘆くべきことなんてほんとうはないんだよ。なにひとつ、ないんだ」  青黒い汚濁に紫が落される。黒が濃くなる。 「だから僕は、嘆くことすらないことを、ひたすらに嘆いている」  鯨の声が、茫漠と響く。  いまにも崩れ落ちてきそうな鉄骨が、いんいんと震える。蔦の根がかろうじて、鉄骨が地に落ちることをふせいでいる。だが、赤錆の孔に喰いこんだ根は、いつそれを喰いちぎってもおかしくはない。  ぱらぱらと散る錆のかけらに睫毛をふせて、俺は曖昧な言葉をかえす。 「存在しないものの喪失がありえないのなら、意味なんてなかったことに気がつきさえしなければ、その虚無に憂うこともなかったのか……」  俺の声は響かない。苔むした地に転がって、鉄に吸い込まれる。  それでも彼は俺の声を拾いあげる。 「意味というものの無意味さを。他人からつけられた価値の無価値さを。認識しながら、僕らは生きていくことができる。わかってしまったら、おしまいだと君はいったけれどね。そんなことぐらいで終われるほどに、人生は優しくはないんだよ」  細い指がいったん画筆を置き、木製のパレットに絵の具を絞る。  彼の手は青ざめている。  筋張った指の関節は鯨の骨格標本を想わせた。  鯨の骨格標本は、子供の頃に博物館で観たことがある。頭部や胴体は恐竜に似ていて、それなのに鰭の骨格は人の指の骨と大差がなかった。綺麗に接がれた幾つもの細かな骨をみて、幼かった俺ははじめて鯨が魚ではなく哺乳類だということを理解したのだった。  痩せた彼の指は、もしかすると鰭だったのかもしれないと、時々に思う。平らな画筆を振るっている時などはよけいに。  こんなに綺麗な手なのに、指のあちらこちらには筆胼胝(ふでたこ)がある。親指のつけ根、人差し指、薬指にも。その硬い突起物の微かな赤みが、生を証明している。彼もまた生きものなのだと、教えている。 「意味がないことでも、続けていくことはできるんだ。悲しいことにね」  彼の手掛ける風景にまたひとつ、色彩が増える。紫に染められた雲のあいまから一筋の赤。いま彼が描いているのは夕暮れの摩天楼だった。無機質なタワーの先端部につき刺さった鯨は、ぐったりと腹をそらしてあおむけになっている。鋭利な鉄に貫かれても、鯨は血を流さない。涙を流さない。畝(うね)をあらわに息絶えた鯨に、夕焼けの赤が滲む。
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