§11

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    §11

そのあまりの美しさに圧倒されて、口を開けたままずっと見上げていたら、その白猫は、ひらりと舞い降りた。 「そなたが、禁欲を貫いたものか」 「まぁ、そうなんですけどね」 「恥ずかしがることはない」 俺が居心地の悪そうにしているのを見て、白猫が言った。 「かつて、幼き頃より修行を積むために預けられた子供たちは、皆そうであった」 白猫は、地面に腰を下ろして座っても、俺の膝丈くらいの大きさはある。 「まぁ、預けられた全ての子供がそうであったわけではないが、今ほど珍しいわけでもない」 「はい、ありがとうございます」 きっと、最初に俺の前に現れた魂の指導者が、こんなきれいな猫だったら、もっとあっさりきっぱり簡単に信用してただろうな。 その優雅な動きや体つきを見ているだけで、魂の全てを奪われてしまいそう。 「私は魂の指導者!」 聞き慣れた、しわがれ声に振り返る。 「久しぶりだな」 焦げ茶の老猫の登場に、白猫の表情がゆるんだ。 「お久しぶりです」 「本当に導師の知り合いなの?」 導師は俺を見上げて、『黙ってろ』という顔をした。 多分だけど。 「今は、導師と呼ばれているのですか」 「私が見つけた弟子だ」 白猫は、ふさふさとした長い尾をゆらして、俺に言った。 「あなたは、童貞を卒業したくはないのですか?」 「えっ?」 「これは、性行為のことだけを言っているのではありません。童貞とは、童のように貞淑、つまり身も心も純粋であるという意味。魔法使いになるのもいい、けれど、わざわざ厳しい道を選ばなくても、得られる幸せはあるということを、あなたに伝えに来たのです」 「なにそれ! そんなの、聞いてないし!」 導師は、後ろ足で首の後ろをぽりぽりと掻いた。 「魔法使いになんてならなくても、幸せに暮らしている人はたくさんいます。あなたは、その一人になれる資格を、充分にお持ちだ」 「それは、普通の幸せってことですか?」 白猫は、ふふふっと笑った。 「あなたの思う普通の幸せとやらが、どのような幸せだか私には分かりませんが、普通に恋をして結婚して家庭を持ち、穏やかに過ごす毎日のことです」 俺の今の状況では、それ自体がどこかの遠い、魔法の国の出来事みたいに思える。 「でも、独身でだって……」 「えぇ、もちろん独身でも幸せな毎日を過ごす方もいます。これは、例えのお話です」 白猫は、長く美しい毛を風に泳がせている。 「修行、お好きですか? 厳しい修行に関係のない、幸せな未来もあるのですよ」 「修行しなくても、いいの?」 「えぇ」 「そ、それなら、そっちの方がいいかも……」 俺は、足元にいる導師を見下ろした。 導師は大きなあくびをしている。 「導師は、引き留めたりしないの?」 「選択権は、常に選択すべき者自身に与えられていて、その決定に対して、誰も干渉することは出来ない」 「自分で決めろって、こと?」 「そ」 「冷たいなぁ、導師は。こういう時にこそ、魂の指導者の出番なんじゃないの?」 「関係ないね」 導師は丸くなってうずくまる。 「よほど、自信がおありのようだ」 「何に対して?」 「あなたに対して」 白猫は、とってもとっても優雅に微笑む。 「私の役目は、魔法を行使しようとする者の、負担を和らげること」 白猫は、俺を見上げる。 「魔法を修得する修行をつみ、それを行使することは、大変な危険と負荷を伴います。それでも修行を続けますか? 魔法が使えなくとも、あなたは充分幸せになれる」 導師は動かない。 俺を魔法使いにならないかと誘ってくれた導師は、どんなつもりで俺の前に現れたんだろう。 その気持ちが、知りたいと思った。 「ありがとう。でも、俺はやっぱり、魔法使いになりたいんだ」 「そうですか」 俺は、足元の導師を抱き上げる。 「どうしても、使いたい魔法があるからね」 導師は、腕の中であくびをした。 白猫は、そよ風に吹かれながら笑う。 「それは頼もしい」 「用が済んだら、帰れ」 気がつけば、白猫は再び鳥居の上に跳び上がっていた。 「あなたが、あらゆる試練を乗り越え、幸せな魔法使いになれることを祈っています」 真っ白な美しい猫は、そのままぴょんと跳ね上がると、どこかへ走り去っていった。 すっかり冷たくなった、秋の風が吹く。 「綺麗な猫ちゃんだったなぁ~」 「ふん、毎度のことだ。いつもそうやって、あいつらは邪魔をしにくる」 家に向かって歩き出した俺は、導師を抱えたまま笑った。 「ねぇ、どうして導師は、俺を選んでくれたの?」 「偶然、通りかかっただけだ」 「はは、でも、最強の弟子になれそうだったんでしょ」 「……、まぁな」 「じゃあさぁ、もうちょっと真面目に修行してよ、俺、本気で大魔王目指してんだからね」 「やかましいわ」 導師の体温が、腕に伝わってあたたかい。 「なんでもない日々を丁寧に生きて行く。それが何よりも、一番の修行なのだ」 そんなことを平気で言っちゃう導師の横顔は、なんかちょっとかっこよく見える。 「お前になら、それが出来る」 夕方になって、少しは人通りの出てきた商店街の入り口、本屋の店の方からのれんをくぐる。 「ただいま~」
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