第3章 §1

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第3章 §1

彼女は、俺が唯一心を寄せた女性は、名を藤崎香澄といった。 「わー、なつかしい! この本屋、まだ潰れてなかったんだね」 彼女はクスクスと笑って、店の中をのぞき込む。 「菜々子の言ってたこと、本当だったねー」 彼女は、俺の顔をちらりと見ただけで、すぐに視線を尚子に移す。 「はー、お姉さんが出来たって言ってたけど、本当にあの有名人の荒間尚子だったんだ。まぁ、あの頃は、たいしたもんじゃなかったけど」 大きなお腹をして、香澄は足元に転がる紙切れを、どうでもテキトーに蹴飛ばした。 「おもしろーい」 「お母さん!」 菜々子ちゃんは、香澄の腕にしがみつく。 「ここの本屋さん、知ってるの?」 「えぇ?」 香澄は、思い出したように笑って、俺を見上げる。 「まぁ、ね」  そう言って、香澄はまた笑った。 「ほら、帰るよ」 大きなお腹で左手に買い物袋を持ち、右手には菜々子ちゃんをぶら下げて、香澄は去っていく。 「なにあの女、かんじ悪くない?」 「別に、かんじ悪くないよ」 肩までのまっすぐな黒髪に、細い目。 それは、彼女の気の強い性格そのものだった。 中学三年生、初めて同じクラスになって、一目で恋に落ちた。 胸の奥が痛む。 「お腹すいた。ご飯食べよう」 彼女の姿を見ただけで、簡単に十五年前に戻ってしまう。 そんな自分を知られたくなくて、すぐにのれんをくぐるふりをして、尚子に背を向ける。 「知り合いなの?」 「同級生」 「あの女、かんじ悪い。あんな女にひっかからないでよ」 「ないって」 それだけを答えることすら、精一杯だった。 俺の背中で、尚子は好き勝手なことを言う。 「ま、妊婦さんみたいだし、あんたなんか、相手にする必要もないと思うけど」 膨らんだお腹。 俺には、そのことがとても悲しくもあり、同時にうれしくもあった。 彼女は今、幸せにしているんだろうか。 「同じ、同級生と結婚したんだ」 「へー。それも知り合い?」 「うん、まあね」 台所に向かった俺に、尚子は呆れたように言う。 「ちょっと、失恋したみたいになってんじゃないわよ」 「失恋じゃないし」 「好きだったんだー、まだ忘れられないとか?」 「何年前の話だよ」 「だから、新しい恋愛が出来ないとか言わないでよね。ま、あんたの場合、それ以前の問題だけどねぇ」 悪いけど、そんな話は、今はできない。 包丁を握る手に、思わず力が入る。 「ちょっと、そんなことよりお店のことだけど、いくら客がいないからってさ……」 「お前こそ、テキトーに男変えて、ちゃらちゃらチャラチャラ遊んでんじゃねーよ! お前に恋愛の話しされても、俺は何とも思わないからな!」 「なに言ってんのよ」 「また雑誌で話題になってただろ、いいかげんにしろよ」 尚子は笑い出した。 俺はとっさに、話題を変えることに、成功した。
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