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手折るのは花か、君か
如何してだろうね。美しく咲く花を見ると、手折りたい衝動に駆られるんだ。酷く汚れてしまったこの手でね。
手折られた花がくったりと首をもたげたその姿は、あまりにも哀しみに満ちている。もう咲き続けることはできない。散ることもできない。ただただ枯れてゆくだけ。そんな花の行く末を想うと、涙が溢れてしまいそうなほど胸が苦しくなるというのに、僕は一体如何してこんなことを考えてしまうのだろうね。全く可笑しな話だと思わないかい?
此方を向いた先生は、少し寂しげに微笑むと、その冷たい指先で私の頬に触れ、そう言ったのです。
僕は、いつかお前のことも手折ってしまうかもしれない。先生の顔色は、頼りなく細くかけた月のように少し蒼ざめていて、己の口から出た言葉に、酷く怯えているようにも見えました。
力仕事など全く似合わない、透き通るほどに白く、華奢で女性的な手。先生の手はそんな手なのです。何事も為すことができなそうなその手は、一時ペンを持つと、繊細な文字で美しい言葉を紡ぎます。先生の手は言葉を紡ぐためだけのもの。花を手折ることなど出来はしないのです。
先生にそんなことは出来ません。私は先生の掌を自分の頬に添えると、それを温める様にそっと目を閉じました。ひんやりとした指先が少しばかり体温を取り戻し始めたとき、するりと首元に触れた熱に体がぞくりと悲鳴をあげました。私の口から溢れた小さな吐息が、先生の唇に尚も熱をもたらせ、幾許かの時間の後、私たちの身体は隙間なく重なり合うのです。
お前の首は細くて手折り易そうだ。飽きることなく唇を這わせながら、そう小さく呟いた先生の髪をくしゃりとこの指に絡めてみると、纏わりつく柔らかな感触に喜びで心が震えました。
私と先生が別々の身体を持ってこの世に生まれたこと。そのことが酷く嬉しいのです。私は先生に触れることが出来、先生も私に触れることが出来るのですから。
私が先生と出逢ったのは、飽きることなく雨が降り注ぐ肌寒い夜のことでした。
あの雨降る夜。私は傘どころか何も持ってはいませんでした。私が持っていたものといえば、この身体と薄汚れた衣服だけ。そんなちっぽけなものを守る為に私は必死だったのです。
四方八方へと枝先を伸ばした大樹の下で、連なっては落ちてくる雨粒を気持ちばかり凌ぎながら、私は空を見上げていました。月は分厚い雲に隠され、小さな星々もその夜ばかりはひっそりと息を潜めていました。薄暗い夜道を照らす街灯が、星々の代わりを務めるかの様に、チカチカと幾度も点滅を繰り返していました。
先生は、薄暗い夜道をゆったりとした所作で歩いていました。その優雅な佇まいは、晴れ渡った空と青々とした空気を間近に感じさせる程でした。
生憎、僕も傘を持ち合わせていないのだよ。どうにも傘というものが苦手でね。あの様に味気なく、更には嵩張る代物を手に持つくらいならば、こうして濡れ鼠にでもなった方が良い。そうは思わないかい? 隣に立った先生は、そう言って表情を和ませました。
見るからに濡れ鼠である私は、凍えたこの身を両の手に残る微かな熱で温めようとしていました。鈍色の空を模した様なコートでふわりと包み込まれた時、その試みがまるで無意味だったということを私は知ってしまったのです。
何を考えているんだい? そう尋ねられ、私はあの雨の夜のことだと答えました。先生は懐かしむ様に目を細め、お前が美しい花になることを僕は知っていたよ。こんなにも愛らしい声で僕を煽るとは思っていなかったけれどね。そう言って小さく笑い声をあげました。
全ては先生が悪いのです。あれ程までにちっぽけだった私に愛することを教えたのは、誰でもない先生なのですから。
けれど、永遠に愛されたい。そんなことは少しも考えてなどいないのです。先生にとって私は、多くの中の1つでしかありません。それでも良いのです。
今日は雨模様だね。出掛けるのが億劫だよ。窓を打つ激しい水音に眉根を寄せた先生が布団に潜り込み、私の胸元に顔を擦り寄せました。直ぐに訪れる甘美な熱に惑わされぬ様、私は言葉を紡ぐのです。
今日は新しい傘で出掛けましょう。素敵な傘を見つけたのです。薄鳶色のチェック模様は、きっと先生によく似合うと思いますよ。
先生はチラリと視線を向けると、肩を竦ませました。傘は嫌いなんだ。片方の手が塞がってしまうだろう? 視界も遮られる。それに、守られるのはごく一部じゃあないか。足元なんて目も当てられない程に濡れてしまう。どうしても意味があるとは思えないんだよ。傘なんてものは必要無い。よく考えてごらん。お前の様に濡れた花ほど美しいものは無い。あぁ、けれど困ったな。いつか、僕は本当にお前を手折ってしまうかもしれない。
正直なところ、手折られるのならば、それでも構わないのです。愛しい先生に手折られること程、私の人生で幸せなことなど有りはしないのでしょう。出来ることならば、私は私の命でさえも、先生に委ねてしまいたいのです。
ゆるりとした仕草で私の唇を盗んだ先生が、少し寂しげに、少し妖艶に微笑んだのを見つめながら。私はそんなことを思っていたのです。
窓を打つ雨音は激しさを増すばかりでした。
完
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