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ある修道女の覚え書き
それは、礼拝で使う水を汲みに、泉へ向かったときのことでした。すその長い修道服は山道を歩くのには向きません。私は木の根に足を引っ掛け、持っていた手桶を放り投げてしまいました。
慌ててそれを拾い上げたとき、ふっ、と頭上に日陰が出来ます。
私は悲鳴を上げました。
魔物が出るというお話は耳にしていましたが、まさか主の御許のこの山にまで! オーマイゴッド!!
必死に走りましたが、ただでさえ歩きなれない山道、次第に魔物の吐息が迫ります。
どこをどう逃げたのでしょう、私は水を汲む予定だった泉に来ていました。
霧でかすんでいましたが、岸辺に人影が見えます。
「逃げて! そこの方、逃げてくださ、きゃぁっ!」
叫んだ直後、私は再び足をつまずかせました。地面でしたたかに顔を打ち、今度こそ手桶をいずこかへ飛ばしてしまいます。
「はじけろ!」
どうっ――と何かが爆発する音がして、私は恐る恐る目を開けました。
背後の魔物は黒コゲに息絶えており、それを見てまた腰を抜かしかけます。
「どした?」
振り向くと、長剣を携えた男の方が、先ほどの手桶をお持ちでした。
手桶を見つけてくれた戦士さんは、ソルさんとおっしゃるそうでした。
私を助けてくださったのは、ウィザさんというお連れの魔導師さんだそうです。
ちょいちょいと回れ右のしぐさをされて、私は慌てて背を向けました。聞けば、山向こうの村を立って以来、一週間近く野宿が続いているのだとか。
お二人は私にケガが無いか聞いたあと、上流で水を汲んできてくださいました。
「一番近い町までどのくらいかかる?」
「そうですね、二日歩けばふもとにはつけると思いますが――……」
そのとき、時刻はすでにお茶の時間をすぎていました。
「よろしかったら院に寄っていかれませんか?」
「……野郎はマズいんじゃねぇか?」
「ふふ、大丈夫です! 季節には巡礼者の方も来られますし」
パンとスープくらいはお出しできます! と言うと、お二人の表情が心なしかほころんだようでした。
つづら折りの山道を登った先に、私の住む修道院が見えてきます。
お二人と一緒に門をくぐると、ちょうど修道長がお部屋から出てこられたところでした。
「シース。……その方たちはどなたです?」
「魔物に襲われたところを助けていただきました。今夜一晩、主の御心にあずかることはできませんか?」
修道長は難しい顔で、お二人を交互に見ています。
「……まあいいでしょう。巡礼用の棟にご案内なさい」
「はい!」
振り返ると、ソルさんとウィザさんがなんとも微妙な表情をされていました。
「お気になさらないでください。お二人とも素敵ですから、みんなの気持ちが乱れないかご心配なんだと思います」
私がここへきた頃は大変お優しい方だったのですが、やはりお年のせいでしょうか。体調が優れない日も多いということで、最近は礼拝堂に来られることも少ないのです。
さて、と渡されたお部屋の鍵を見てみると、なんと廊下の端と端!
ソルさんが小さく吹き出すのが聞こえました。
「……さすがってカンジ?」
翌日は、朝からひどい雨に見舞われました。こんなお天気の日に山を降りるのは危険です。修道長もひどく体調が優れないということで、お部屋には入れていただけませんでしたが、特別にもう一泊を許可してくださいました。
巡礼用の棟へ行くと、お二人は階段で荷物の整理をされているところでした。
私が声をかけるより先に、ソルさんが口を開きます。
「ウィザ、お前昨日来た?」
「あ゙ぁ?」
曰く。
ソルさんが昨日眠っていると、なんとなくおなかの辺りに重みを感じたそうです。
不審に思って目を開けてみると、白いドレスを纏った、それはもうプロポーションの綺麗な女性が――――
「ぃでっ」
「ざけんな」
しばしぶつぶつとこぼしたあと、ウィザさんは呆れと憐みが混じったような顔をされました。
「…………そうか……幻覚見るほど溜まっ」
「違げ―よ!!」
今度はソルさんがムキになって否定し、ふー……とため息をつきます。
あまりのことに呆気に取られていると、その女性が、すう、と首筋を撫でたというのです。とっさに長剣の鞘で一撃すると、彼女は悲鳴をあげて姿を消したのだとか。
「……ま、なら寝ボケてたんだろーな」
あくびをかみ殺すようにして、ソルさんがそう呟きました。
大変失礼なことですが、この時は私もその意見に賛成だったのです。けれど夕食の片付けの際、年配の方々がウワサしあっているのを聞いてしまいました。
「また出たらしいわよ、“巡礼棟の娼婦”」
「らしいわねえ」
「ど、どういうことですか!?」
「あらシース、知らなかったの? あなたが来て二、三年のころかな、たまに見たっていう巡礼者さんがいたのよ」
「そうそう、それで魂が抜けたみたいになっちゃった人もいて」
「最近は人も来ないし、あの部屋も使われてなかったんだけど……」
「まあ旅人さんだし、そう禁欲を保たなきゃってこともないしねえ……」
ジ―――ザス!!
なんということでしょう!
修道長のお部屋に急ぎましたが、もうお休みになっているのか、ノックにも反応がありません。ソルさんのお部屋だけを変えるにも、鍵はすべて修道長がお持ちになっているのです。
やむを得ません。
就寝時間をだいぶ過ぎてはいましたが、私は棟に行くことにしました。
ソルさんに、いえ、お二人ともに事情を話して、場合によってはウィザさんのお部屋で休んでいただくか、少し手狭ですが私の自室でも眠れなくはありません。
だとすると、私は廊下で……いえいえ、お隣に頼み込んで、なんとか泊めていただけないかしら……
考えながら歩いていた私の鼻先を、ふわ、と何かが掠めました。
「(綿ぼこり?)」
いいえ、糸でした。
それも縫い物用のそれではなく、蜘蛛の巣の切れ端のような、鈍く銀に光る糸。
はっと周囲を見渡すと、壁といわず天井といわず、べったりとした糸の束が廊下に|あふれていたのです。髪の毛が伸びるように壁を這うそれは、ソルさんがお泊りの部屋から洩れ出ているようでした。
急いでそこへと走り、持ち物から聖水を振りまくと、ドアを塞いでいた糸が溶けるように消えてゆきます。
「ソルさんっ!」
飛び込んだ室内で、長身の女性がソルさんを押さえつけていました。部屋は廊下以上の量の糸で埋め尽くされ、それらを身に纏わせた『彼女』の姿は、白いドレスを着ているようにも見えます。
「―――――!」
私は声を上げることも忘れ、二本目の聖水を『彼女』に浴びせました。
幸いにして、ソルさんの手には長剣が握られていましたが、既に体はベッドに縛られ、腕の力だけで『彼女』を押しとどめている状態です。
片腕が自由になった瞬間、ソルさんは『彼女』めがけて長剣を振り下ろし―――
「シース。就寝時間はとっくに過ぎているでしょう?」
横殴りに伸びてきた糸の束が、私を壁に叩きつけました。
したたかに背中を打ちつけ、一瞬意識が遠くなります。けれど先ほどの『彼女』の声は、ひどく聞き覚えのあるものでした。
「………修、道長…?」
呻く私に、『彼女』がゆっくりとこちらを振り向きます。右目の上にはくっきりとした青アザが広がっていました。
若い美女の顔が崩れるように変化し――アザはそのままに、修道長のお顔へと変わったのです。
「あ…なた、何者です!? 本物の修道長をどうしました!?」
「さぁて、どうしたかしらねえ?」
くすくすと笑って、『彼女』の顔が再び若い女性に戻ります。『彼女』はけだるそうに髪を撫でつけました。
「ちょっと前までは良かったわ――こんな山奥にも巡礼者が絶えなくて。ここならエサにも苦労しないと思ったのに、ちょっとほかの魔物が増えたら「来られません」? ……人間ってヤワよねえ…」
「っ…ぐ……!」
からん、と、絡め取られた長剣が床に落ちました。
ソルさんの腕には幾重にも糸が巻きつき、ぎしぎしと軋みながら身動きを封じています。それを横目で見やって、「まあいいわ」と『彼女』が呟きました。
「少し待ってなさい。じきにあなたも始末してあげる」
「ソルさ……!」
起き上がろうにも、思うように体が動きません。まるで穴の開いた風船のように、体に巻きついた糸から力が吸い取られてゆくのです。
ソルさんの首に手をかけ、『彼女』がちろりと唇を舐めました。
「久しぶりの獲物だもの、カラッポになるまで吸い尽くしてあげる……」
「――――火炎よ!」
風を切って飛び込んできた炎は、一瞬で室内に燃え広がりました。そのまま部屋を覆っていた糸を焼き切り、ソルさんが床に投げ出されます。
「積極的にも程があるんじゃねえか?」
「ウィザさんっ!」
ウィザさんは私を見ると、驚いたように目を丸くされました。目線だけで私とソルさん、部屋の中をざっと見渡し、
「悪ぃ。世話んなったな」
「い、いえ……」
そう答えた瞬間、何かが私の前を横切りました。飛びのいたウィザさんの腕を掠め、鋭い蜘蛛の脚が床板を破ります。
「ちッ」
見ると、糸を燃やされた『彼女』の下半身は、蜘蛛のそれに変化していました。
手を振って私を下がらせながら、ウィザさんが床に落ちた長剣に目を留めます。やや視線をずらすと、同じく床に倒れたままのソルさんと目が合いました。
ソルさんがゆっくりと瞬きをします。
「はじけろ!」
ごうっ! という熱波に煽られて、火の粉が部屋に飛び散りました。
床を蹴ったウィザさんと入れ替わるようにして、『彼女』の脚が床を砕きます。
「ソル!」
次の一撃が頬を掠めるのにもかまわず、ウィザさんは床の長剣を足の甲で拾い、ソルさんの方へ蹴り飛ばしました。
と同時に、『彼女』の両腕がローブを掴みます。
「ウィザさんっ!」
それは、主に仕えるものとしてあるまじき行いだったかもしれません。
首にかけていたロザリオは、驚くほどあっさりと引きちぎれました。私の放り投げたそれは、いびつな放物線を描いて『彼女』とウィザさんの間に落ち―――
――――ぢっ!!
と耳障りな音がして、室内に火花が走りました。それに弾かれるようにして、『彼女』の手がローブから離れます。
「貫け!」
次の瞬間、ウィザさんの呪文が『彼女』の胴を真ん中から吹き飛ばしていました。
宙に投げ出された『彼女』の上半身が、ぎろりと私を睨みます。
「き……――――!」
刹那、『彼女』の顎を長剣が貫き、そのまま私の頭の横の壁に突き刺さりました。
へなへなと腰を抜かす私のそばで、その体が砂となって消えてゆきます。
「大丈夫か?」
そう言って私を覗き込んだのは、長剣を引き抜いたソルさんでした。
「あ゙――まだクラクラする」
「薬草より聖水にしとけ。早めに教会行けよ」
「りょーかい。……とりあえず片付けねーとな…」
ロープとかある?
そう聞かれて、私はようやく我に返りました。やはり日ごろの訓練の差でしょうか、体がうまく動きません。
「ロープは……ええと、裏手の小屋にあると思います。あと、そこのクロゼットに手当ての道具がありますので……」
持ち物から最後の聖水を開け、そこに包帯を浸します。こうすることで、魔物の毒や呪いをやわらげることができるそうです。
呪文を使わない手当ての心得は、修道院で最初に教わることの一つでした。
「…………」
どうして気づかなかったのでしょう。
思い出の中のどの姿を取っても、修道長は周囲にきつく当たるような方ではありませんでした。魔物と入れ替わる前もあとも、お話しすることは何度もあったのに。
「悪いな、血なまぐさいことになって」
「いえ、お二人がご無事ならそれが――――」
ぽろ、と、涙が落ちたのが分かりました。
ぎょっとして固まるお二人を前に、一旦あふれ出したそれは止めようにも止まりません。私とソルさんを交互に眺め、ウィザさんが小さくため息をつきます。
「立てるか」
そう言って、ウィザさんは棟の外へと歩き出しました。
まだ薄暗い庭を抜け、私たちは修道長のお部屋へとやってきました。
手近なイスに私を座らせ、ウィザさんが室内を調べています。
「あんた、家族はいるのか?」
「はい、母と弟がふもとに」
「結婚は?」
私は苦笑して、首を横に振りました。
「いえ、ここにいる間は。院に入ることは主と結ばれることだ、という方もいらっしゃいますから」
「……例の修道長か?」
「まさか!」
少なくとも私がここに来たころは、そういうことにはとても寛大な方であったと記憶しています。ただ、
「……ご結婚は、されていませんでしたね」
「そうか」
ウィザさんは頷くと、部屋のある場所でソルさんを呼びました。二言三言会話を交わして、ソルさんが壁に向かって長剣を振ります。
崩れた壁の向こうで、ごそり、となにかが動きました。
「修道長!?」
私は傷の痛みも忘れ、壁際へと駆け寄りました。
昇り始めた朝日に照らされ、その方の首のロザリオがきらりと光ります。まぶしそうに目を細めて、彼女が私に微笑みました。
「まぁ、シース。お久しぶりねえ……」
私はお二人がいらっしゃるのも忘れ、修道長の胸に泣き崩れていました。
「……つまり、どーなってんだ?」
「長年修行した修道女なら、身に着けたものは自然と清められて、聖水と同じ効果を持つようになる。さっきやけに火の回りが速かったから、ここの建物も相当古いんだろ。食われず閉じ込められてんなら、雨水や木の根で生きてる可能性が高いと思ってな。……それに、」
“未婚の乙女に主の加護がある”ってのは、たまに聞く話なんだよ。
お二人が院を立たれたのは、その翌朝のことでした。
そして今、ふもとから来られた大工さんが、巡礼棟の修理をしてくださっています。先日降りてきた旅人たちから、代金は受け取っているのだといって。
「シース、お茶を入れてきてくださるかしら? みなさんでいただきましょ」
「はい、修道長」
先日の雨がウソだったかのように、空は気持ちよく晴れています。まるで、台風が通り過ぎていったようだと、私は思いました。
主よ、お導きに感謝します。
end.
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