夏合宿のこと

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夏合宿のこと

 連日続く猛暑日に部室の中は項垂れていた。 「クーラーボックスの中の氷溶けてない? 大丈夫? 」 「部室にクーラー付けてくれ、冷蔵庫も置かせてくれ」 「そろそろ死人出るんじゃねぇのこの学校」 「そろそろ腕の汗疹で皮膚科行こうと思うんですけど、おすすめの皮膚科ありません? 」  定期試験が無事終わり、いつもより早めに部室に行くとほぼ全員が死にそうな声を出していた。 「あっ、瑞葉ちゃんと美羽ちゃん、お疲れーテストどうだった? 」 「皆さんのおかげで赤点は確実に回避です! 恐らく、六十は越えます! 」  部室の扉を開けたまま、その様子を見ていると叶先輩が気付いて声をかけてくれる。テストの報告をすると良かった、良かったと言って貰える。 そのまま、叶先輩の目の前、部室の机の上を見ると、あちこちの旅館のホームページを印刷したものや地図、電卓、レポート用紙が広がっている。  それを広げていた叶先輩はクーラーボックスの保冷剤の状態を確認している。 「サイダーと麦茶とスポドリどれが良い? 」 「サイダーで」 「スポドリで」  私達の返答を聴いてそのまま、クーラーボックスから一本ずつ出してくれた。 「ちょっと、クーラーボックスの氷が持たないかもしれないから冷たい内に飲んじゃって」  と、言って叶先輩は、成田出るかなぁと言いながら成田さんに電話をかけ始めた。  成田さんは学校の近くで一人暮らししているそうで、部室のクーラーボックスの保冷剤を持ってきたり、入れ替えたりしてくれている。 以前、保冷剤で冷凍庫が圧迫されて冷食が買えないと笑いながら言っていた。保冷剤の管理を分担する案が出たものの、成田さんが衛生的に嫌だ、の一点張りでそのまま成田さん管理になっている。 「叶さん、これは? 」  スポドリを片手に美羽が机の上を覗き込む。叶先輩が部室の机を占領して作業している点で個人的な旅行ではないんだろうなと思いつつ、一緒になって覗き込む。  色々と紙が広がっているなかに、SNSのページを印刷したものがあることに気付いた。 「夏の合宿の計画なんだけど、場所がまだ決まらなくて。列車とかバスとは移動手段早い所決めたいんだけど、場所が決まらないことにはね」  成田さんがまだ電話に出ないのか呼び出し音を出したまま美羽の質問に答える。 「二人は合宿参加する? 場所によっては参加費結構かかっちゃうんだよね」 「今まででどれくらいかかったんですか? 」 「安い時で、二千円。高かった時で、一万徴収されました。基本曰く付きの所に行くから宿代自体は安かったりするんだけど移動費でかかったりするんだよね」  そう言いながら叶先輩はケータイを机の上に置いて、留めてあるレポート用紙をめくり、何枚か見せてくれる。ケータイは成田さんが電話に出ないので諦めたみたいだ。  レポート用紙に書かれているのは、最近ネット上で話題に上がっている心霊スポットや幽霊の目撃情報のある宿などだ。 「信ぴょう性の高い所に行きたいからネット上から探したんだけど、今年は不作みたいで。写真とかって撮り方一つで変なものが写ったみたいに見えるからねぇ。オーブが写ってる写真なんかは大抵空気中の埃が発光しただけだったりするし」 「都市伝説の舞台とかはやらないんですか? 八尺様がいる地域とか」  思い付いたことを言ってみると、叶先輩は微妙な顔をしている。例えるなら、思い出したくないものを思い出してしまった的な顔だ。 「以前、何かあったんですか? 」  詳しく聴きたくなって、畳みかける。 「エンジェルさん・こっくりさん大会っていうのを一昨年だかにやって懲りたわ。降霊術なんてもうやらない、都市伝説の舞台とはもう行きたくない」  乾いた笑い声をあげる叶先輩に何があったのか掘り下げたいのはやまやまだけど、一欠けらの良心で止めた。成田さんか土屋さんが教えてくれるだろう。  少し残念に思いつつ、そのまま叶先輩の向かい側に座って鞄から部活用のノートを取り出す。資料類はクリアファイルに入り切らなくなってきたためフラットファイルに閉じてある。 活動の一環として一人一つテーマを決めて、調査・発表するというものがある。  発表は夏休み明けなので今から動き出さないと後々辛くなる。  テーマ自体は結構なんでも良いらしく叶先輩は『たたりもっけ』について調べているし、成田さんは『妖精の目撃情報』を収集している。遠海さんに至っては『新しい占い手法』を体得する、だ。  意外と自由だったので、私は最近生まれた都市伝説を収集することにした。 ネット関係で困ったことあればいつでも言ってくれ、と成田さんが言ってくれたので、遠慮なく頼っている。  美羽は父方の家系に残る怪異譚を調べている。この前、美羽から、物置にこんなのあった、とお札が大量に貼ってある箱を嬉しそうに見せられた時は、その禍々しさに絶句してしまった。  それを持って部室に行った時は、叶先輩は部室から逃げ出し、遠海さんから怨念の塊だね、と言われ、成田さんは嬉々と写真を撮り始め、叶先輩が呼び出したらしい土屋さんに怒られた。  そんなことも思い出しながらノートに調べた内容を書き起こしていると、叶先輩は電卓を叩いて費用を試算する。 「二人とも、場所決まったら連絡入れるから出せそうな金額なら参加してよ、毎年面白いことになるからさ」  そういって、ニヤニヤを笑っていた。  それから一週間後、部活の一斉メールで合宿の詳細が決まったという連絡が入った。参加希望者は部室で詳細を確認して欲しいとのことだった。  朝に連絡が来て二人で確認して、放課後に行こうかと美羽と話す。美羽も早めに部室に行きたいみたいに言っている。直接的には言っていないけど、放課後に高校の方に居たくないと言っているように感じる。 「放課後とかなんかあったの? 」  まどろっこしいのは好きじゃないので聞いてみた。すると、美羽はちょっとびっくりしてから笑って、敵わないなぁという。 「未だに放送局の人に付きまとわれてんの。はっきり断ったんだけど、話聞いていないみたいで。瑞葉がトイレ行ってて、私が待ってる時とか話しかけてくるんだよね。瑞葉と喋ってた方が楽しいし、大学のサークルの方に参加してるって言ったんだよ、それなのに……」  私が知らない内に、放送局関連で色々あったらしい。文句と悪態が流れるように出てくるのを聴きながら慰める。なんというか、気の毒だ。そして、気付けなかった自分が恨めしい。  その日は、放課後直ぐに部室に行って、成田さんに今回行く所がどれ程凄いか力説された。美羽はケタケタ笑いながら楽しそうにしている。  合宿に参加する旨を伝えると、合宿内でテーマの発表をするんだけど、発表する? 見学だけにしておく?と叶先輩に訊かれたので、美羽と二人で見学することになった。間に合うかなぁと言いながら、あまり部室では見かけない部員の人が資料を作っている。美羽はその画面を見て、いくつか質問をしたりしてニコニコしてる。 「彼女、楽しそうで何よりだね。放送局についてはまだ揉めるけど、大丈夫だよ」  急に話しかけられて驚いて振り向くと遠海さんがルーン石を触りながらこちらを見ていた。  最近、遠海さんの全てを見透かすような目が苦手なんだと気付いた。疚しいことなんてないはずなのに、見られたくないと感じる。 「俺は、叶さんが穏やかに過ごせるならそれで良い。叶さんが心配しそうだから気にするだけだよ」  考えすらも見透かしたように言葉を言って、ルーンの占い方法の本に向き直る。暗に無関心であることを言われた気がする。なんだかモヤモヤする。  夏休みが近づいて何となく浮足立った雰囲気がある。桃ちゃんは陸上の合宿があると楽しそうに話している。中学の時よりも成績が上がってきているらしい。初日に見かけた、ひなさんと一緒で、合宿上近くの海に行くつもりらしい。水着はどんなのが良いかなとキラキラした目で雑誌を見ている。  桃ちゃんに断りを入れてトイレに行く。一か所だけ、全く混まないトイレがあって主にそこを使っている。美羽に混まない事を教えてみたけど、ここは嫌らしい。時間かかんなくて良いと思うんだけど、個人の好みなのでしょうがない。  トイレから出ると、見覚えがあるような女子と男子が立っていた。ここを使う人が私以外にもいるんだなぁと思いながら横を通り過ぎる。 「あの、小林さんですよね。ちょっと良いですか? 」  通り過ぎようとしたら話しかけられた。しかも、かなり険のある言い方だった。  ここで無視したら後から何を言われるか分かったもんじゃないから、嫌々足を止める。やっぱり絶対見たことある顔だ。  声をかけてきたのは男子の方だ。その隣で、女子が腕を組んで不機嫌そうにしている。 「私達、放送なんだけど、藤村さん拘束するの辞めてくれる? 」  一言目から、かなりきつめの言葉が来た。初対面のはずなんだけどな。初対面の人にここまでのことは、私は絶対言えない。 「入学当初にも確認取ったんだけど、入らないの一点張りなんだよね。賞取ってるし、中学の時にアナウンスも楽しそうにしてた印象あったからどうしたんだろうと思って」 「本人が入らないって言ってるんだからしょうがないんじゃないかな? 私に言われても、美羽が決めた事なんだし」  女子の方が怖い、自分は間違ってないですと全力で主張する感じだ。まだ、男子の方が話通じそうかな。  私に言われても困ります、と全力で訴えてみる。 「藤村さんはアナウンスで大会で賞取れる人なの、才能もあるし、高校でも絶対好成績残せるの。アンタみたいに取柄もないもない凡人と一緒にしないでよ、アンタがいるから藤村さんが放送局に入れないの!」  怖いと思っていたら、突然ヒステリックな声を上げる。男子の方は彼女の様子に慣れているのは何も言わない。  それから、ひたすら、いかに美羽が素晴らしいかと、美羽が放送局に入れないのは私がいるから、私が如何に凡人で美羽と釣り合わないかを力説された。 「一回、家まで行ってみたんだけど親御さんが出て、まだ帰っていませんっていうんだよね。七時過ぎてたのに帰ってないっておかしくないかなって。君はここ本命で入ってるんだろけど、美羽さんは滑り止めでしょ。美羽さんだって勉強したいはずだよね。君が美羽さんを拘束するから彼女は勉強出来ないし、好きなアナウンスも出来ないんだから、もう少し考えてくれないかなって思ってるんだ」  こちらの話を聴く気はないようで、相手の一方通行な話が続く。 どうしよう、相手のご高説は続いているが、教室には桃ちゃん待たせている。早めに教室に戻りたい。  私を散々こけ降ろしてくるから精神的にもきついけど、美羽はこんな人達に付き纏われてたんだと思うと本気で可哀そうになってきた。これは警察に相談した方が早いんじゃない?  もう教室に戻りたい。怖いし、人の話聞かないし、人って一方的に責められると精神にくるんだな。 「瑞葉ちゃーん、いたー! 次移動教室だよー」  泣きそうになって来た時、桃ちゃんが小走りで近寄ってきた。そのまま、私の向かいに立っている二人には目もくれず、私の腕を掴んで、急ごう、とだけ言って引っ張ってくれる。  後ろで放送局の二人組が何か吠えてたけど、そのまま腕を引っ張って教室に戻ってくれる。  助かった、ありがとうと小さく言うと、「どういたしまして」と笑ってくれた。  必要な荷物をリュックサックに詰め込んで、一泊二日の小旅行。行き先は鈍行列車を三時間程乗った所、青い海と広い砂浜、太陽に照らさせて煌く緑の山、どこか懐かしくなるような風景。  こんな素敵な場所でオカルト部の合宿が行われます……    各々荷物を持って、駅から二十分程歩く。日差しは強いけど、心地良い風が吹いている。車道を走る車はほとんどいない。偶に通ったと思えば、中には小さい子がいるから里帰りとかかもしれない。 「飲み物とお菓子類持ってきて正解だったね」 「そうね、コンビニ位あるだろって高括んなくて良かった、さすが瑞葉」 「いやね、お母さんの親戚の家がこんな感じの町にあるから嫌な予感してね、ほら、こういう所って移動販売車が来たりするから住んでる人は意外と何とかなっちゃうんだよね」 「なるほどね、そこら辺は何も考えていなかった」 「まぁ、持ってきたもの、全部先輩達に持ってかれて仕舞ったよね」  目を細めて美羽が笑う。集合場所に美羽と二人で行った時、美羽はローラー付きのクーラーボックスの中に大きめのペットボトルを五本程、私は大量のお菓子が入ったキャリーケースを自分のリュックサックとは別に持っていた。  集合場所で既に待っていた叶先輩から、「私達で持つから」と「後でお金返すからレシート頂戴」を繰り返し言われた。  レシートについては、半場奪われてしまった。 その後、クーラーボックスに飲み物とアイスを詰めた成田さんが来て、トランプやらUNOやらを遠海さんが持ってきて、という感じで人が揃った結果、私達の持っていた荷物は参加している男性陣から奪われるように持っていかれた。  曰く、年下の子に荷物を持たせるのは三役の恥、先輩の恥らしい。  遠海さんだけは、叶先輩のボストンバックを持つの一点張りで叶先輩の荷物を持たせて貰っている。  叶先輩は参加者全員分の列車のチケットや宿の予約表、合宿で行われる研究発表のタイムスケジュール、発表者が時点に提出した発表資料などで他の人よりも荷物が多かったから、助かっていると言えば助かっているんだろう。 「いやー、暑いね。分かっていたけど、成田くんにアイス買ってきて貰って正解だった」 「土屋さん、前に居たんじゃなかったんですか? 」 「後ろで体調不良者出たときに、現三役なり、元三役なりいないと対応できないでしょ。それで叶ちゃんから後ろ行けって駆り出された」  帽子を目深に被った土屋さんが笑う。私達よりも土屋さんの方が体調不良になるんじゃないかと心配になる。 「土屋さん、大丈夫ですか? 頭とか痛くないですか? 気持ち悪いとか……」 「瑞葉ちゃん、心配してくれてありがとう。お兄さんは嬉しいよ。叶ちゃんも成田くんも誰も心配してくれないんだもん」  泣くような仕草をする土屋さんに、苦笑いする。このサークルは先輩を好きだし、尊敬してるけど、まま扱いが雑になったりする。そんな緩さと寛容さは高校の部活には無いみたいだ。  喋りながら、笑いながら歩く。入道雲が空に浮かんでいる。  わぁわぁと騒ぎながら――特に成田さんのテンションの上がり方は酷かった――宿に着いた。 「ようこそおいで下さいました。お部屋に案内いたします」  到着した宿は外見は古い木造建築だった。中に入ってみるとい草の香りがする。床は畳敷きで綺麗にされていて、モダンな感じでまとめられていて、家具やフロントも新しい。  なのに、私達以外のお客さんがいないようだった。玄関にお客さんのものと思われるような靴はないし、フロントで見えてしまった予約一覧にも『豊川大学オカルト部様』以外の文字が見当たらない。  立地もあるんだろうけど、なんでこんなにお客さんがいないのか不思議でならない。館内の売店には飲み物や軽食、地域のお土産も置いてあって泊まるのに不向きな感じはない。仲居さんも優しい。  なんでだろう。  案内されたお部屋は女子三人が使うにしては大きな部屋でびっくりした。畳の上にベッドがある和風モダン風だ。 美羽と一緒に素敵だと言いながら写真を撮る。ケータイのカメラもちゃんと起動するし、挙動がおかしいこともない。 「ほれ、はしゃいでないで荷物片付けるよ。飲み物類は冷蔵庫に入るだけ入れて」  叶先輩の指示でテキパキと荷物を壁に寄せたり、お菓子類を机の上に出したり準備をする。  叶先輩は自分の片付けをしながら成田さんと連絡を取り合い、どちらの部屋に集まるかなどを決めている。  しばらく、ケータイをいじっていた叶先輩から荷物を端に寄せて、机を移動して欲しいと頼まれる。  男子部屋よりも女子部屋の方が大きいので全員で集まることになったそうだ。  準備ができたら一旦集まってスケジュールやご飯の時間を確認した後、自由時間を過ごす。夕食が終わってからテーマの発表会、その後、余裕があればこの地域の都市伝説及び怪談話の検証をするとのことだ。  準備をしながら叶先輩が窓の方を気にしている。 「叶さん、どうしたんですか? 」  美羽も叶先輩の様子が気になったのか、声をかける。 「いや、うん、気のせいかな? 窓の外が変な感じしてね。何だろう、変に気になるのよね」  一緒になって窓から外を見る。季節の草花が咲き誇り、綺麗だ。 でも何だろう、不思議な感じ。庭にあるものを一つ一つ確認する。  小さな登楼、小さな川、赤い橋、飾りの舟、平安貴族の舟遊びをイメージして庭を造ったとホームページに書いてあったなと思い出す。  ホームページに載っていて今ここにないもの。もしくは、ホームページに載っていなくてここにあるもの。一つ一つ確認して、見つけた。整備された庭に似つかわしくなくて、逆に見落としてしまうもの。 「先輩、あそこの桔梗が生えてる奥見えますか? 」 「ああ、見えるよ。奥に何かあるね、白いのも見えるね、しめ縄? 」 「祠ですかね、でも崩れてますよ。こんなにお庭整えてるのに、変」  先輩も美羽を見つけたみたいだ。桔梗の奥に隠されるようにある朽ちた祠。倒壊してから時間が経っているのか木はぼろぼろになって、礎石が砕かれたみたいになっている。  この庭、変だ。  重たい沈黙が過ぎる。三人とも一言も話せないでいると、先輩のケータイが鳴る。先輩が謝りながら部屋のドアを開けた。男性陣から催促がかかったらしい。  窓の前で美羽を目を合わせる。きっと何かが起こる。私はそんな風に予見した。  窓の外は、ぽつぽつと雨が降り始めた。  自由時間に行ったお風呂は色々な種類があり楽しかった。 地元の名物サイダーが売店で売っていたのを美羽が買い、一口飲んでから押し付けられた。よくわからない味がした。 浴衣に着替えた叶先輩は美人に磨きがかかり、遠海さんが傍から離れなかった。  成田さんと土屋さんがスリッパで卓球を本気を出したやり始め、それを見ていた福原さんという二年の先輩が爆笑しながら動画で撮っていた。 その様子を仲居さんが偶に見に来てくすくすと笑いながら仕事に戻っていく。  さっき見た祠の異様さを忘れてしまう位の穏やかで騒がしい時間が過ぎていった。  夕食のあと、全員が女子部屋に集まる。発表する人は最後の準備や資料の確認をする。叶先輩は土屋さんと窓の近くで話している。 話している内容は聞き取れないけど、恐らく祠の報告でもしたんじゃないだろうか。その間に遠海先輩と一緒になって飲み物の準備をする。アルコール系の飲み物が見当たらなくて逆にびっくりした。  最後に遠海さんが鞄の中から小瓶の日本酒を出した。 「日本酒飲むんですね」 「ううん、これは飲まないよ。四隅に置いて結界作るの。成田さんが塩持ってるはずだから回収してきてくれる? 」  はーいと返事をして、資料と未だ睨めっこしている成田さんから塩を回収する。ごめん、準備お願い、と手を合わせて頼まれてしまった。  美羽は土屋さんから小さな平皿と底の深い器を受け取った。それに塩とお酒を入れて四隅に置く。窓側に置かれた塩とお酒は遠海さんが少し足していた。 「みなさーん、準備整いましたよー」  遠海さんの声掛けで全員が部屋の中心に置かれた机の周りに集まる。全員が座ったことを確認してから、合宿の本命となるテーマ発表は始まった。  一人一人発表を進めていく。質問とその返答、身の危険を感じたこと等、発表されたものをより良い形に昇華していく。自分の発表に関連して考察を述べたり、知っている伝承との類似点を述べたり、凄いとしか言いようがなかった。大学生になれば全員がこのような活発な議論が出来るとは思わないけど、本気で調べて取り組んだことに対して、目をキラキラさせて話せるのは羨ましいとは思う。  変なことに気付いたのは叶先輩が発表を始めた時だった。 「ねぇ、資料足りてる? 全員分ある? 」  発表を始めようとして、ハタと気付いたようにそう確認する。人数を数えて発表資料を準備したのは叶先輩なのにだ。  あるよ、あるよー、など一人一人声を出す。叶先輩は人数を数え直す。土屋さん、叶先輩、成田さん、福原さん、遠海さん、美羽と私の七人全員居る。 「あれ、やっぱり七人だよね。なんで八人だと思ったかな」  合宿準備で疲れたかなぁ、と叶先輩が言って手元にあるお茶を飲む。土屋さんは窓際にある冷蔵庫の上に置いておいた塩とお酒を持って、窓際の盛り塩と酒を継ぎ足した。 「叶ちゃん、確認済んだ? じゃあ、続き進めようか」  机に戻った土屋さんが促して発表が再開する。塩とお酒は土屋さんが手元に持っているままだった。  全員分の発表が終わった。意外と緊張していたのか、ため息と終わったという安堵の声がする。 「毎度思うけど、意外に緊張するんだよな。全員マジな顔になって発表聞くから頑張んなきゃって思うのかな」  いつの間にか私と美羽の後ろに来ていた成田さんが言う。ぎりぎりまで資料を見直して、説明を考えていたからか、首を左右にかしげて肩を回すと関節から音がする。  お疲れ様ですと声をかけて、机の上のお菓子を足したり、クーラーボックスから冷蔵庫に飲み物を移したりする。こういった作業を自分からやらないと本当に話を聴いて終わり、になってしまう。  新しいお菓子を出すと、発表の終わった人達から、ありがとうとごめん気にしてなかった等の声をかけてもらえる。それに笑って返事をする。  スケジュール的にはこの後は肝試しが予定されていたけど、発表が終わった反動からいつものように雑談が始まる。内容が面白過ぎるので一緒になって雑談に興じる。  今回の発表の感想を訊かれたり、都市伝説の話で盛り上がっていた。その内に、妖怪ブームが来たんなら妖精ブームもそろそろ来て欲しいという話やら、知り合いの河童からキュウリをせがまれた話やら、混沌とした会話内容が繰り広げられている。凄いのが、誰一人として嘘を吐いていないという事だ。  知り合いの河童ってどういう事なんですか、福原さん。  ガヤガヤと人数もさして多くないのに騒いでいる。ふと、窓を叩くような音が聞こえた。ああ、また雨が降り出したんだな。 「土屋さん、すいません。もう塩もお酒もないです。今さっき継ぎ足して使い切りました」 「ええ、本当? うーん、どうしようかなぁ。完全に切れたわけじゃないからまだ大丈夫だと思うけど、日が昇るまでは持たないかな」 「継ぎ足している頻度から見て、難しいと思います」  成田さんが目隠しをしてお茶の銘柄当てを始めて他の人が盛り上がっている最中、叶先輩と土屋さんが不穏な会話をしている。 「今回一押しだったから来てみたけど想像以上だね。やっぱり下見はしとかないとダメかぁ」 「日が昇るまで別の場所に移動しませんか。ここに来る途中に屋根のあるバス停があったので、そこに行けばなんとか」  恐らく、何か不都合が起こっているみたいだ。 移動するなら荷物もまとめないといけない。どうするのかなぁと思いながら成田さんの方に向き直るって、続きを見る。今のところ、十五回連続成功だ。 「瑞葉、ごめん、ちょっと具合悪い」  お茶じゃ面白くないと誰かが言いだして、炭酸の銘柄当てゲームを成田さんがチャレンジし始める。福原さんが面白がって炭酸にタバスコを混ぜたりして、やんややんやと盛り上がる。 その中で、私にだけ聞こえるように、美羽が小さい声で言う。 「大丈夫? 横になろうか」 「ごめん、ありがとう」  美羽がゆっくり体を寝かせて、私の膝の上で頭をのせる。小さい時からの付き合いだと、膝枕をするのも、されるのも普通になっている。  だから、何も考えずに膝枕したけど、周りに人から困惑の目で見られた。状況が分かってないのは、目隠しをされた成田さんだけ。その目に気付いても、何に困惑しているのか気付くのに時間がかかった。 気付いてから、なぜか恥ずかしくなる。 「えっと、私達は幼馴染なので何となく慣れているというか、なんというか」  あまりに視線が集まってしまったので、しどろもどろに答える。美羽は本当に具合が悪いのか、何も返答しない。 「仲良きことは美しきかな? 」  疑問形で返してきた福原さんと状況が分からず目隠しをしたままま、何? 何? と訊いている成田さんと笑いながら写真を撮りまくる遠海さんといったような状況になってしまった。  どうやってこの場を治めようかと内心焦りながら考えていると、叶先輩が手を叩き、全体に声がかけた。  その声に反応して、全員が窓の方に向き直る。成田さんの目隠しは遠海さんが取ってあげていた。 「盛り上がっている最中に申し訳ないんだけど、これから近くのバス停に移動します。そこで日が昇るまで避難したいと思います」 「これについては、薦めておきながら下見しなかった俺のせい、最低限の荷物を持って移動を開始して欲しんだよね」  窓の前で、叶先輩と土屋先輩が話す。ただ、疑問が湧いた。 「あの、さっきから雨降ってたと思うんですけど大丈夫ですか? 」 「瑞葉ちゃん、ここについてすぐの時ににわか雨が降ったけど、それ以降は雨は降ってないよ」  そう、直ぐに土屋さんから返される。でも、私は確かに雨が窓ガラスを叩く音を聴いたのだ。  そう証言するかのように、また窓を叩く音がする。コンコン、コンコン、コンコンと何度も音がする。 「瑞葉ちゃん、君にはこれが雨がガラスを叩く音のように聞こえるんだね」  にやりと笑って土屋さんが窓の前から退く。  そして気付いてしまった。窓には雨粒が一つも付いていない事に。それなのにまだ、コンコンコンコンコンコンコンコンと音はする。 「これは雨の音じゃあない、何かがガラスを叩いている音だよ」  息をのむ音すらも聞こえてきそうな静寂が部屋に起こる。 「さぁ、分かったら移動を始めよう。叶ちゃんはよく頑張ったね。先導は成田くん頼んだよ。殿は俺が努めよう、それから……」  土屋さんの指示で全体が一気に動きだす。避難のためとはいえ完全に結界の中から出ることになる。どうするのかという質問は、遠海さんが簡易的な結界を張り、その状態で移動することで落ち着いた。  移動は、基本二列になる。先導の成田さん。その後ろに叶先輩と遠海さん、二人の後ろが私達、そして殿に土屋さんと福原さんが入る。  土屋さん曰く、一番ターゲットにされやすいのは、早い段階で逃げ出しそうになっていた叶先輩と既に体調に影響が出た美羽だという。  今回、年一度の合宿という事もあり、叶先輩はまだ大丈夫と、逃げ出したいのを我慢していたらしい。そんな様子に全く気が付かなかったけど。 叶先輩は、指示が遅れたばかりに危険な状態まで来てしまったと、判断ミスだったと悔やんでいるが、それを大丈夫だと土屋さんが言って、移動の準備を進める。  進めている内にガラスを叩く音が大きくなっていく。コンコンという音がガラスを殴りつけるような音に変わってきた。音におびえながらも、移動のために手を止めるわけにはいかない。具合が悪い美羽の代わりに、美羽の分の荷物を用意して、肩にかける。 全員の準備が出来たのを確認して、移動を始めた。  部屋から出ると、昼間の明るさが嘘のように廊下が真っ暗で照明が入っていない。大抵の宿であれば何かあった時のために少し位、明るくしているにも関わらずだ。  懐中電灯で足元を照らしながら道を進む。正面玄関までは真っ直ぐ進むと着くような位置になっている。成田さんが後ろの様子を確認しながら歩く速さを調整する。  当然、早く逃げたいという気持ちはあるのだろうけど、足元がふらついている美羽と体がガタガタと震えだしている叶先輩を置いて移動するわけにはいかない。 「先輩、マジで大丈夫なんですか? 」 「ん? うーん、どうだろうね。これは判断を誤った俺の責任だからどうにかするよ。君らの命の有無だけは保証してあげる」  後ろから福原さんと土屋さんの会話が聞こえる。土屋さんの声はいつものどこか軽薄で、頼もしいようなものではなくて、硬くて、大丈夫に見せているように聞こえる。 「すいません、止まってください」  先導を務めていた成田さんが声を上げる。どうしたのー? と普段のように振る舞おうと土屋さんが返事をする。 「今まで歩いた距離、明らかにおかしいんですよ。フロントから部屋、大浴場から部屋って今日だけで何回も移動しました。でも、こんなに遠くはなかった。館内で部屋から一番遠かったのが大浴場ですけど、大浴場に行った時よりも多く歩いています」 「暗いし、緊張状態だからではなくて? 」  震えを止められない状態の叶先輩が聞いた。けど、成田さんは首を横に振る。 「歩数が違うんですよ。大浴場に言った時の歩数と今歩いた歩数、倍になってます」  首元から歩数計で取り出す。この歩数計結構正確なんですよ、と付け足して廊下の続く先を見る。真っ暗な空間が続くばかりで明かりが入ってこない。正面玄関があるなら少し位明るいはずだ。  土屋さんは、考えるような仕草を見せた。 「兎に角、今は前に進もう。恐らく、もう部屋に戻ることは出来ない。だったら前に進むしかない」  それ判断が正しいのかは誰にも分からないけど、実際いま出来ることは限られている。  進もうとしたとき、バキンと硬い物が割れるような音がした。 「石が三つ割れた」  音のした方を見ると遠海さんがルーン石を入れている袋の中を懐中電灯で照らして見ていた。袋から割れた石を取り出す。割れた三つは砕けて、小さな破片になってしまっている。 「同じ所にいるのは危険かもしれませんね。進みましょう」  袋の口を閉じて、遠海さんが声を出した。その声に被せる様に別の声がかぶさる。  その声は、声と言うよりノイズに近くて、叫び声に近くて、泣き声で、助けてって、怖いって、寂しいって、苦しいって、痛いって、なんでって、どうしてって、捨てたのって、脳に直接響いてくるようなそんな音で。  走れ! と誰かが叫んで、走りだした。叶先輩は遠海さんに腕を引かれて、美羽は福原さんが担いでくれた。  足元がふらついていた美羽は、完全に意識を失っていた。  それから兎に角、走った。後ろから来るなら前に進むしかない。福原さんがに前に行って貰う、どうしたって走るのが一番遅いのは私だから。  土屋さん、走りながら何かを呟いている。息を切らしながら、余計に息が切れるのを知っていても呟いている。 「もう、離してよ。痛いよ。なんで連れて行こうとするの! 」  前では、叶先輩が遠海さんの腕を振り払おうとする。遠海さんは叶先輩の手が白くなるほど強く掴んで引きずるようにして走る。 「痛いってば! やめてよ! 嫌、嫌だ、嫌だって、やめてよ! 」  叶先輩の泣き叫ぶ声がする。 「いや、いやだ、神様になりたくない! いや、やめて、やめてよ、離してよ、おじいさま! 」  叶先輩が錯乱して、言葉にした内容。嫌がって、怖がって泣き叫ぶ少女のような声。 「なるほど、人柱か、なら出来るな」  それを聴いた土屋さんが笑って見せる。まるで、あれなら倒せるとでもいうように。  その間に叶先輩が抵抗を強める。遠海さんが腕を振り払われる前に抱きしめるようにして拘束する。抱きしめたまま、叶先輩を持ち上げて、走り出す。 「痛い、痛い、なんでぶつの! 痛い」 「出してよ! なんで箱に入れられてるの! ねぇ、出してってば! 」  少女の叫んでいる言葉から何が起こったのかが窺い知れる。 少女の高い声で叫ぶ、痛い、痛いと訴えて、意識を失うまで痛みに晒されて、それから箱に押し込められて、土に埋められた。生きたままに埋められた。なんのために?分からないままに神様に仕立て挙げられた。 「でも、実際の所は怨霊になった。今までは祠をちゃんと祀っていたから出てこなかったけど。祀る人がいなくなって崩れた祠も放置されて、出てこれるようになってしまった。この宿の行方不明伝説の真相がこれかよ!」  前の方で、成田さんが叫んでいる。真相は分かった。けど、叶先輩はまだ錯乱してるし、美羽は気絶してるし、何も改善してないじゃない!後ろからは何かが近づいてくる。今ははっきりと足音が聞こえるし。 「瑞葉ちゃん、もうちょっか頑張って成田くんの所まで走っていけるかい? この距離だと巻き込んじゃうかもしれないからさ」  そう言われたかと思うと、イエスもノーも言う前に背中を押された。ばんばんに腫れたふくらはぎの痛みを我慢して、成田さんの所まで加速する。  後ろの方から、土屋さんの声が聞こえて、一瞬、視界がホワイトアウトして、そのまま床に転がった。  チカチカする目を瞬きを繰り返して戻す。走り続けた足はめちゃくちゃ痛い。息も切れて、喉も痛い。  上半身を起こして回りを見れば成田さんはヒューヒューと喉から音を立てている。福原さんも隣に美羽を隣に寝かせて、床にひっくり返っている。 「瑞葉ちゃーん、美羽ちゃんお願い」  今にも力尽きますといったガラガラの声で福原さんが私を呼ぶ。這うようにして移動すると、美羽は穏やかな顔をしていた。具合ももう悪くなさそうなので、肩を揺らして起こす。 「えっ、ちょっと、どういう状況! 」  叶先輩の声から、意識が戻ったようだと遠海さんがいた付近を見ると、叶先輩の下敷きになっている遠海さんと、遠海さんをまたぐように座っている叶先輩の姿があった。  なんで態々あんな恰好になるようにしているんだろう。 「あそこまで行くと、流石にあいつのこと変態だと思うんだ、俺」 「福原さん…… 私も同意見です」  混乱する叶先輩をしたから見上げて楽しんでいる遠海先輩を汚らわしいものを見るように見る。  改めて周囲を見渡すと、部屋を出てすぐの廊下だった。手を伸ばせば部屋の扉に手が届く。なんかむかつくなぁ、こんなに走らせておいて戻ったらここか。などを悪態を吐いていると、美羽も目を覚ます。  何が起こっているのはまるで分からず、頭の上でハテナマークを浮かべる美羽に何が起こったのか説明する。その内に、成田さん、叶先輩も説明に加わり、大体のあらましを理解したようだ。 「えっ、そんな大事な時に私寝てたの? そんなオカルト部の醍醐味みたいな、もしかしたら合宿中一番盛り上がった所で寝てたの?」  勿体ないことをしたと本気で悔やみ始めた美羽を見て、助かったのだと安心して、ため息をする。 「瑞葉、ところで土屋さんはどこ行ったの? 最後、土屋さんがなんか凄いことしたのは分かったんだけど、本人はどこ? 」  美羽の指摘に全員が、あっ、といって周りと見回す。助かったと思って安心しきって確認していなかった。  廊下の奥を覗いたりして探してみても見当たらない。  どうしよう、もしかしたら土屋さんだけ戻ってきていないのかもしれない。 「祠に関連しているんだから、部屋に戻ってみるのは? 」  叶先輩の提案に、成田さんが顔を引きつらせている。  それぞれが互いに顔を見合わせている。  叶先輩は時計を確認して、迷っている暇の方がなさそう、という。 「今、四時半過ぎ。あと三十分で夜が明ける。夜が明けたら、私達から向こうに介入するのは難しくなる」  部屋の扉の前に立って、入るのは自由だから、と付け足して、ドアノブを回した。  その時、ドアに重たいものがぶつかる音がして反動でドアが空く。  居たのは土屋さんだった。体中のあちこちに切傷があって、血が流れている箇所もある。 「いやー、脱出することは出来たんだけど、それが火に油を注いだみたいで、めっちゃ怒ってるわぁ」  ひらひらと手を振りながら説明してくる。深い傷はないみたいだけど、息を切らして立ち上がる姿は止めない訳にはいかなかった。 「今なら、外に出られんじゃないですか、そのまま逃げましょう」 「それは無理、いま逃げた所で、この子は周りに人間を無差別に祟り殺すだけだよ、ここの経営者ならまだしも従業員は関係ないだろ」 「そんなこといったら私達だって関係ないじゃないですか! 」  なんで、傷つきながら人のために無償で動こうとするんだろう。私は、自己中心的で自分が大事だから、私の知らない人が死ぬのと、関係ある人が死ぬのでは重さが違う。だから、人のために尽くして危ない目に合うくらいなら目の前から逃げ出したい。なのに…… 「力を持つものは、その力を責任を持って行使し、万民に尽くすべきだ。ウチの家訓なんでね」  そういって、また立ち上がる。窓は開けられて、その奥には真っ黒い塊がウゴウゴと動いては鳴き声のような音を立てている。 「力単体だったら押し負ける、かといって小手先のトラップじゃあ意味がない」  さて、どうしてほしい、その声は今まで聞いたことが無いような、本能で怖いと思ってしまう声だった。 そのまま、土屋さんが大量のお札を指の間に挟んで塊に近付いていく。  塊は何もしない、キーキーと音を立ててうごめくだけ。 「悪いね、俺は未練を晴らして助けるみたいな方法が不得手なんだ、一発で燃やし尽くしてやる」  手を振り上げ、札を大量に塊に投げつけようとした時、美羽を声を上げた。 「寂しかったの? 」  立ち上がって部屋の中に入っていく。私が止めてもなるで聞こえていないように迷いなく足を進める。  まだ止めようとする私を土屋さんが制す。何かあればすぐに攻撃できるようにお札を指に挟んだままで。 「怖かったんだね」  鳴き声のような音が増える。子どもが色々な内容を口々に言葉にするように。 「辛かったんだね」  ゆっくりと近付きながら、手を伸ばす。子ども抱き留めようとする母親のように。 「もう自由なんだよ」  黒い塊が美羽に近付く、手の様に塊の一部を細く伸ばす。決して、人一人分ではないサイズの塊ごとすがるように。 「お休み」  美羽は黒い塊を抱きしめた。抱きしめて撫でた。昔話に出てくる母親のように。  そして、黒い塊がドロドロと液状になり始めた。それでも、美羽は腕を動かさず、少し体を揺らしながら子守歌を歌う。  子守歌に呼応するように部屋の中に風が吹き込んでくる。その風は黒い液を少しずつ空に還す。  キラキラと瞬くように風に連れていかれる黒とその中心に黒い長い髪の幼い少女が痣だらけの腕を伸ばしていた。それに応じて、美羽が抱きしめる。  少女が何かを美羽に言う。私には何も聞こえない。けど美羽は、大丈夫だよ、良いんだよ、お休みと返した。少女は笑って、風に乗って還っていった。  宿主を失った祠は、砕けた。まるで、その空間には何もなかったかのように。  部屋に吹き込んでいた風は止んで、部屋の中は何事もなかったかのように部屋を出る直前の状態のままだ。 「終わったんですか? 」 「うん、そうみたいだね」  部屋の中で全てを見ていた私と土屋さんで美羽がこちらを向くまで待っている。 「あの、すいません。涙が止まんなくて、ずっと苦しかったみたいで、なのに、最期に笑って『ありがとう』って、理不尽だなって思うと涙を止まらなくて」  振り向かないままに、離す美羽は涙声で声を震わせて、感情を頑張って言葉にする。 「理不尽じゃないですか、好き勝手やった人がのうのうと生きてて。抑圧されて、搾取されて、蔑ろにされた人が死んでいくなんで理不尽じゃないですか。彼女は全てを赦したんじゃない、赦さざるを得なかっただけ、こんな理不尽がまかり通って良いわけじゃない」  喉を傷めるような声の出し方をして、自分の感情を制御する。  そんな美羽に土屋さんが近寄る。硬い声で、覚悟を問うように、 「じゃあ、その力を報われなくて、理不尽にあった人々、いや、人とすら言えなくなったもの達のために使えるか? 生きている人間に背を向けて、後ろ指を指されても、彼のもの達の声に心を傾けられていられるか?」 「完璧とは言えないかもしれない、上手くいかないかもしれない、それでも私は彼らを自由にしてあげたい。彼らの声をちゃんと聞き届けたい」  美羽の返答を聴いた土屋さんは、ニッと笑った。 「じゃあ、手助けしてやる。力は万人のために使われるべきだ。そして、より幸福の追求のための使われるべきだ。よろしく頼むよ、弟子くん」  差し伸べられた手を握り返して、意思の強い瞳で見返す。  白んで明るくなった空がその瞳に移り込んで、覚悟を決めた顔を照らして見せた。  明るくなった庭の祠のあった場所には、真っ白い桔梗の花が一輪だけ咲いていた。  それから何事もなかったかのように部屋を片付けて、ベッドに潜り込んだ。叶先輩が言うには、一時間でも良いから寝ないと体が持たないらしい。  隣のベッドに寝る美羽が寝られずに、天井を見つめているのを無言で見ながら、私はそのまま眠りについた。  美羽がまた遠い存在になったような気がした。  あとから、聞いた話、あの宿は五年程前に改修工事を行って、それを機に経営権を他の会社に売ったらしい。担当者としては一族が続けたものの、最終決定権は別会社の方にあるため今までのようには出来なくなっていたそうだ。  その一つが、祠の管理。会社の重役が祠のある宿なんて気持ち悪くて泊まれないと言い出して、その場で壊すように指示をだした。その時の担当者は一族ではあったものの、神仏を信じているような人ではなかったらしく、指示されるまま壊してしまった。  それから、その宿では一定数の人間が宿の中で行方不明になることがあった。担当者も、会社も関連はないとしていたけど、噂がネット上に広がり、客足が遠のいてしまったそうだ。  少女は優しそうな人を選んで閉じ込めてしまったのかもしれないと土屋さんが言っていた
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