01.流砂

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01.流砂

 雲ひとつない空とどこまでも広がる砂の海を見ながら、男はため息をついた。容赦なく照り付ける日差しは強烈で、その熱は体を苛む。想像以上に体力が消耗していくのがわかる。  「うへー。あっついねー。」  男の傍らにいる少女は舌を出しながら汗をぬぐい、やがて服を脱ぎだした。  「バカ。肌をさらしたほうが体力を消耗するぞ。服を着ろ!」  男が声を荒げると「だって、暑いんだもん。」と言いながら、ニヤリとして顔を覗き込むように体を伸ばした。  「あたしの裸を見るのが恥ずかしいのか?」  男は呆れてため息をつく。  「誰の何が恥ずかしいって?お前の裸なんて見て飽きるほどだ。大体見るところもないだろう、その板のような身体じゃ。」 かぶりを振って先を急ぐ。すると後ろから少女は声を張り上げた。  「お前は女の身体には興味ないんだろう?だったら板みたいなこの身体に欲情しないのはなんでだ。そこら辺の男どもの身体と変わらないだろう?」  男は片手を額に当て、ため息をついた。こんないつもの馬鹿げたやり取りも、このような過酷な環境下にあっては返す気力が削がれるというものだった。  旅の途中、次の目的地を前にしてこの砂漠に差し掛かった。本来であれば、行き来に慣れた商人でもない限り砂漠を迂回するのが賢明なのだが、迂回路では20日ほど要するのに対し砂漠を抜ければ7日もかからないことを考えると、この長い旅の最終ポイントとなる目的地を前にして気持ちが急き、つい無茶をしてしまった。今までの旅の経験から、多少厳しい道のりであっても行けると踏んでの砂漠入りだったが、今となっては目算の甘さを痛感せざるを得なかった。  ――店のおやじがオアシスがあるなんて言っていたが、こんなに厳しいとそんな幻も信じたくなるな。  男はぼんやり考えた。砂漠をこえるのに必要なものを揃えるため訪れた店で様々な情報も得ていた。風の強い時期に当たると砂にまかれて方向がわからなくなることもあるが、今は砂漠を渡るには穏やかでよい時期であることも聞いていた。そして準備が調った頃、「こんな話があるんでさ」と話好きの店主が口を開いた。  ――この砂漠には幻のオアシスがあるんですよ。いや、それはもう楽園のようなところで、水があふれるように湧き出していて、花が咲き乱れ果物がたわわになっているらしいんです。男も女もみな家族にように仲が良く、子供から年老いたものまで穏やかに暮らしているってんでさ。夢みたいな話だと思ってるでしょ?でもあっしはここで長いことこういう商売をしていて、そのオアシスから戻った何人もの商人たちから直に話を聞いてるんですよ。みんな一様に同じ口ぶりでさ。もうこれは疑いようもない事実ですよ。  確かにいずれの話も内容は同じで、その信ぴょう性は高いものに感じられる。しかし鵜呑みにするのはためらわれた。その手の話は数多いようだが、その割に未だそのオアシスがどこにあるか見当もつかず、数日から数か月滞在しているはずなのにいずれも情報量が極端に少ないことに違和感を覚えた。それらは豊かな自然と平和的に人々が暮らしているという程度の、ほんの数時間そこにとどまったかにすぎないような印象のものでしかない。そう考えれば、話の真偽を疑わざるを得ないと思った。  順当に考えれば、何らかの共通した状況下で同じような幻を見ていたというところか。複数の人間が別の時期に同じ幻覚を見るのは通常なら考えにくい。しかし、このような過酷な環境下では人間の求めることはおのずと限られてくる。まずは水や食料、そして仲間とはぐれ、たった一人広い砂漠に取り残された孤独や恐怖に耐えかねての人恋しさが見せる幻であると考えれば、十分すぎるほどの説得力があるというものだ。  「ねえ、なんか音がする。すごい深いところからこっちに来てる感じ。」  男の思考を遮るように少女が言った。少女はただの人間ではなく、竜の血が混ざっている。危険を察知する能力に長けており、今までの旅にあってもそれは大いに役立ってきた。  「あぶなっ―――」  少女が声を上げたかと思うと、いきなり足元の砂が渦を巻くように崩れていき、男と少女、そして荷物をたくさん積んだラクダもろとも飲み込んでいった。  あわてて口を塞ぎ目を閉じる。砂の重みで体を思うように動かせない。はじめは引き込まれるような感覚だったが、暫くすると押し寄せる波のように上下左右から絶え間なく力を受け、もみくちゃにされるうちに意識が遠くなっていった。  ほどなくして目を覚ますと、平らな地面に横たわっていた。とっさに上体を起こして周囲を見ると、砂と空しかなかった先ほどまでの風景とはまるで違う。目の前には垂直な巨大な岩の壁が延々と続いており、背後、おそらくその方向から砂に流されてきたのだが、そちらでは砂が巻き上げられてまるで壁のようになっている。そして全く向こう側が見えなかった。その二つの壁のわずかな隙間に細々と平地が続いており、今はそこに身を置いている。 その光景は男の理解を超えるものだった。この砂の壁はなんだ。近づきもせず、遠ざかりもしない。これが自然現象だとはとても思えない。今見ているものを理解したいと思うのだが、それほどの猶予はなかった。男が目を覚ました時、既に数人の男たちに囲まれていた。そのうちの一人が近づいてきたため男はとっさに身構えた。  「旅のお方、まあそう構えずに、我々は危害など加えませんから。」  一番の年長者と思われる老人がそういった。確かに取り囲んでいるどの男たちの顔にも警戒心は表れておらず、砂に流されて来た者に対し興味を示しているようだった。それはまるで男がここに来ることを知っていたかのようであり、また、このような外部の人間との接触に慣れているようにも見て取れた。  「暫くお待ちください。じき、我らの長が参りますので。ああ、ちょうど。」  老人がそう言ったところに、一人の若い男が颯爽とやってきた。その男は他の男たちの中にあってひときわ目立つ風貌だった。初めに取り囲んでいた男たちは、どちらかというと男性にしては小柄で、また肉付きも薄いものが多かった。一方、今やってきた男は背が高く、肉付きの良い立派な体躯をしていた。年齢は20歳を超えているか、いや体格の良さでそう見えるだけで、実のところもうは少し若いのかもしれない。肌や目の色から他の者と同じ種族かと思われたが、顔立ちからすると異国の血が混ざっているのだろう。長たるものがこのような若者であることに驚くと同時に、今まで見てきた様々な地域とはずいぶん違う文化を持つ者たちであることが想像された。  「私の名はラウード、このオアシスの長です。我々はあなた方を客人として迎えたいと考えています。」  オアシスの長と名乗る男は明るく良く通る声で言った。  「ここは水や果物などが豊富で、自然の恩恵を存分に受けることができる地です。好きなだけ滞在していただいて構いません。ところで、我々はあなたをどのようにお呼びすればよろしいですか?」  その問いかけに答えるより先に男は周囲をくるりと見渡し、少し離れたところに少女がぐったりと伸びているのを見つけた。そして、先ほどの取り巻きの一人が少女に近づき触れようとすると、男は大きな声でけん制した。  「触れるな!そいつの背には毒針がある!」  少女に近づいていた者は、その言葉に驚き手を引っ込め後ずさりした。男は少女に駆け寄り、体を起こし揺さぶり、頬を軽くたたいた。正気付いた少女は目を開いたとたん顔をしかめ、舌を出し口の中に手を入れるようにしてペッペッと砂を吐き出した。  「口の中がじゃりじゃりするー。気持ち悪い。水は?ラクダさんは?」  周囲をキョロキョロ見渡しながらも状況を理解できず、不安そうに男にしがみついた。  「これで口を漱ぐといい。体の砂も落としたいだろう。すぐに流せるよう用意させよう。」  ラウードは少女へ水の入った袋を差し出しながら、先ほどの返答を待つように男を見た。男はそれに応えるように言った。  「俺には名がない。こいつは名を与えられていない。だから、俺たちのことは好きに呼んでもらえればいい。」  それを聞くと、ラウードは探るような眼で見たが、周囲のものに聞こえるように大きな声で言った。  「それではこちらを『旅人殿』と。それとそちらの方は『お連れの方』とお呼びしましょう。どうぞ、こちらにおいでください。」  招くようなしぐさをし、岩の壁に向かって進んでいった。岩には一か所割れ目があり、細い道が奥へと続いている。先を行くラウードに遅れないよう男と少女はついて行ったが、周囲の取り巻き達は先ほどの興味深げな態度とは打って変わって少し距離をとって二人を見ていた。背に毒針があるとは、魔物か?なぜ入ってこられた。そんなささやきが聞こえてきたが、男は聞こえぬふりをし、ピタリと身体を寄せて歩く少女を庇い守るように引き寄せた。 その様子を見たラウードは申し訳なさそうに笑顔を向けた。  「すまない。あなた方のような旅人を迎え入れるのは初めてなので、皆少々驚いているのです。しかし、あなた方は砂漠の番人に許されてここに来ているので、我々に害をなすものではないことは確かです。皆もそのことは理解しているので、じきに不安も消え、態度も変わってくるでしょう。暫くは落ち着かないかもしれませんが、気になさらないでください。この地の民はみな寛容ですから、すぐにいつも通りの穏やかさとなります。」  『あなた方のような』とは、少女が魔物の流れを持つものであることを指しているのだろう。様々な地域を旅する中で、その土地ごとに掟や習わしがあり、忌避もまちまちだ。しかし、いずこの地でも共通して魔物は忌み嫌われる。そして、少女はどこにあってもその運命を背負って生きてきた。 ――まだ気づかれてはいないが、知れれば俺もどう扱われるだろう。  そしてまた、いずこの地でもやはり共通して恐れられるのは呪いだ。 ――俺にかけられた呪いが彼らに害をなす前に、ここを出なければ。  そうは思うのだが、身に着けていたわずかな荷物を除き乗り物まで失った今、先ほどの苛烈な砂の海に戻る気力も湧かない。それにラウードの言葉を信じるなら、ここでは安全に滞在できそうだ。話の通じる相手のようだし、水と食料を分けてもらえるよう話をしてみてもいいかもしれない。ゆっくりもしていられないが、少しの間なら体を休めてもよいだろう。無事に砂漠を踏破するためにも英気を養うのが先決だ、と考えた。  一か所に滞在するのは7日間までと決めている。旅には想定外の出来事はつきものだ。このわずかな滞在は今後の旅にさほど影響を与えないだろうと、この時は考えていた。
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