02.オアシス

1/1
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

02.オアシス

 ラウードの案内のままに岩の割れ目の通路を進んでいくと、突然目の前に広々とした空間が現れた。その光景を目にしたとき男は言葉を失った。そこには穏やかな表情をした人々が笑い語り、それぞれの仕事をしていた。そして真ん中には泉があり、そのほとりに鮮やかな花々、重たそうに枝をしならせ実をつける木々があった。それはまさに店主から聞いていた幻のオアシスそのものの光景だった。 ――まさか本当に存在しているとは。ということは、話の通り今までも多くの旅の者を受け入れてきているということか。どうりで慣れた様子だったわけだ。  男は胸をなでおろした。外界と隔絶された閉鎖的な土地では、安全に過ごすために様々な神経を使わなければならない。特殊な風習があっても受け入れなければならなかったり、不用意な行動や発言で命が危うくなることもあり得る。様子を見ながら相手の言う通りにすることがとりあえず無難だが、場合によっては不自由を強いられることにもなりかねない。その点、これまでの様子やここを訪れた者たちが無事に帰還していることからも、この地の人々はある程度相手の文化を理解し尊重することができそうだと思った。  そんなことを考えながらふと気が付くと、傍らにいた少女の姿が見えなくなっていた。あわてて周囲を見渡すと、明るい声をあげている女性たちの真ん中で、与えられた果実にかぶりつきながらご機嫌な様子の少女を見つけた。温かな歓待を受けていることはすぐに分かったが、男は血相を変え、走った。  「こら。フラフラしてるんじゃない!危ないじゃないか。」  そういって少女の片腕をつかんで引っ張った。するとその様子に驚いたラウードが後を追ってきた。  「このようなへんぴなところですから、お二人が来てみな喜んでいたんです。驚かせてしまったかもしれませんが、ご安心ください。」  すると男は少女の背中が見えるように上着の裾をめくり、言った。  「皆さんのご厚情には感謝いたします。砂漠で行き倒れているところを救っていただき、その上このように温かく迎え入れていただいて言葉もありません。ただ、一つだけはじめにお伝えしておかなければならないことがあります。この者の背には何があっても触れないでいただきたい。この毛に触れると毒に侵され、最悪の場合、死に至ることもあります。」  人々の前で露わにされた少女の背中には、背骨に沿って一筋に毛が生えていた。それはちょうど馬のたてがみのように、しかしそれより短く、下から上に向かって逆立っていた。  「この者は自分の意思でみなさんに危害を加えるようなことは決してしません。しかし、何も知らずに触れることでみなさんに危険が及ぶようなことがあってはなりません。布の上から触れる分には安全ですので、服を着て普段通りに過ごしていれば何も心配はいりませんが、念のため特に小さなお子さんは近づけないようにお願いします。」  その場にいた大勢が息をのみ、水を打ったように静かになった。男も当然こんなことは言いたくはない。背毛に直接触れるようなことがなければ害はないので、今までこんな風に、少女の上着をたくし上げて他人に背毛を見せることなどなかった。しかし、この土地の人々がとても友好的なことと、少女の天真爛漫な性格でこうも早く馴染んでしまっている状況を見ると、何かの拍子に不用意な接触もあり得る。そんな不測の事態を避けるためにも、このことをあらかじめ伝えておいたほうが良いと直感した。  何事も、起こってからでは遅いのだ。しかし、彼らは今の言葉をどう受け止めるだろう。これで追い出されるならそれも仕方ない、半ば諦めながら反応を待った。  「我々の身を案じてお教えいただき、心から感謝します。みなもお連れの方の身体に不用意に触れることはせず、ご心配をおかけしないように。」  ラウードがそう言うと、周囲の雰囲気がにわかに和らぎ、女たちは元のように明るい声を出しながら少女を取り囲んだ。実におおらかな種族だ。それにこの長に対する厚い信頼で結束していることがよく分かった。誰もが彼の言葉を待ち、聞けば安心する。安定した生活は第一に物質的な不足がないことによりもたらされる。人々の様子を見ると肌の色つやも良く、栄養も行き届いているようだ。穏やかな表情を見れば、日々の生活で不安に思うことが多くないことも伺える。それでも人間は満たされながらもいさかう生き物だ。そこに人々をまとめる術を知る長の聡明さがあれば、互いに信頼しあい、生活の安定は揺ぎのないものになる。ラウードは若いながら十分にその資質を有しているのだろうと思った。  「大声を出し、驚かせて申し訳ない。」  男はラウードのほうへ向き直した。  「気になさらず。むしろお話いただいて感謝します。ひとつ滞在に当たって考えなければならないことが。我々は体を清めるのに男と女で別々の泉を共同で使用しています。お連れの方には女の泉をお使いいただくつもりでしたが、今の話では普段使わない少し離れた場所にあるものをご使用いただくようになりますね。」  「それはありがたい。俺もそこを使わせてもらいます。あいつの背中はその毒に耐性のある俺じゃないと洗えないので。」  それを聞いて、ラウードは驚いた表情を見せたが、すぐに明るい表情に変わり「食事は皆で集まって一緒にとる習わしです。後ほど声を掛けます。」と言って去っていった。  ほどなくして、少女が一人の女性を連れて男の元に戻ってきた。ここでは女性も多くの者がやはり小柄で華奢な体つきだが、一緒にやってきたこの女性は他の者とは異なった肉感のある、女性らしいしなやかな体つきをしており、一言でいうと美人だった。  「あのね、この子はエルっていうの。あたしたちのお世話をしてくれるんだって。」  着いた早速ちやほやされて、甘く熟した果物を存分に食べ、さらには世話役まで付いている、何もかも至れり尽くせりなもてなしに、少女は上機嫌だった。  「エルといいます。ラウードの妹です。何かお困りなことがあったら、なんでも言ってください。」  なるほど、兄妹揃ってここでは目立つ容姿だと思った。しかし、妹の目はグリーンで、肌も他の者たちより一段浅い色だ。異国の血が混ざっているとしても、兄のそれとは少し異なるような印象を持った。  「早速だが、こいつと身体の砂を落としたいので案内してもらえるか?」  そういうと、エルは驚いた表情を見せ、「一緒にですか?」と聞き返した。この地では夫婦でも一緒の泉に入ることはない。異国では様々な習慣があることを理解しているが、今までそんな話は聞いたことが無いだけに戸惑いを隠せなかった。  「お二人は、その・・・特別なご関係、ということですよね?」  エルは小さな声で言った。こんなことを聞く自分を恥ずかしいと思ったし、詮索は禁物とはわかってはいるものの、少なからず二人の関係に興味を持たずにはいられなかった。そしてこの問いかけに対し、少女はぱっと明るい表情を見せ、男は眉間にしわを寄せ少女をにらんだ。それを見たエルは思わず吹き出してしまい「仲がよろしいんですね。」とだけ言った。その言葉を否定することはなかったが、男は憮然とした表情を見せた。  泉は冷たいということもなく、ちょうど良い温度だった。汗を洗い流すのは砂漠に入って丸二日ぶりだ。砂まみれの身体を泉に浸すだけで、余分な体の熱が汗や砂と一緒に消えていき心地良かった。男は少女の背中の毛をその流れに沿って丁寧に指でつまむように洗った。この毛の中に毒針が隠れている。「針」といっても特に固い尖ったものがあるわけではなく、ほかの毛のように柔らかくほとんど見分けはつかない。よく見ればわかるくらいの赤味がかったものがそうで、毛先にある「かえし」のようなものが指に引っ掛かりやすく、毒がそこから回り込んでくる。  「痛っ。」  男が思わず言った。慣れてはいてもたまに指を引っ掛けてしまう。普通であればこれだけでも指が三倍にも腫れ上がるくらいの毒性なのだが、男にはピリッとした痛みを感じる程度だった。それはラウードに言ったようなこの毒に対する耐性があるからではなく、昔魔女にかけられた呪いの副作用のようなもので、いかなる薬も効かない身体となったからであった。それは裏を返せば、毒に侵されない身体でもあった。  「また指引っ掛けちゃった?」  男の反応を気にかけて少女が言った。かつて男の指が傷つくので洗わなくていいと言ったことがあった。しかし頑なに男は少女の背毛を洗い続けた。道具を使って洗うと、すぐに道具が傷み使い物にならなくなった。男に出会うまでは動物のように木に背中をこすりつけたこともあったが、毒に当てられた木の皮はすぐにはがれ、やがて枯れ始めたのを見てそれもやめた。唯一の肉親である母が死んだとき故郷の村から街に売られたが、この毒針による被害が出たことで街の人間から強い非難を受け、迷信まがいに様々なことを言われた挙句、誰も絶対に背毛に触れることがないように鉄板を背負わされて生活することになった。そんな中、旅で訪れた男に出会い、街から連れ出されて一緒に旅をすることになったのだった。  「あんたに何かあった時は、あたしの命をあげる。何があってもあんたを守る。」  男が指を引っ掛けるごとに、少女はこういった。それはいつも同じ言葉で、まじないのようであり、誓いのようでもあった。  男に初めて会ったとき、竜の血が混ざっていることを告げると、突然男は「背中を見せろ。」と言ってきた。そんなことを言われてはじめは拒絶したが、もらわれた先の宿屋の客として男の身に回りの世話をしていたので、断ることができず仕方なく見せた。  「お前はこれに誇りを持たないといけない。俺の国ではかつて竜と共闘していた時代がある。言い伝えでは、それは勇猛で気高く、深く信頼できる同志だったといわれている。だから、周囲が何と言っても、お前はその血を誇りに思い、胸を張って生きていけばいい。」  男は「その証を大切にしろ」と言い、それ以降少女の背を洗うようになった。それは単に丹念に手入れをするということではなく、生まれたときから過酷な運命を背負い、虐げられ続けた半人半魔の少女の誇りと尊厳を取り戻すための行いだった。そのためなら指を傷つけるくらい男にとってはどうということはなかった。  少女はそんな男のことが心の底から好きだった。自分の命よりも大切な存在だった。男と出会って、自分が自分であることを誇っていいのだと初めて知った。そのため、この男がもし旅の途中で飢えることがあれば、自分の身を削いで食べさせてもいいと考えていた。剣がその身を貫こうとするなら、間に入ってこの身に受けると決めていた。そんなことは少女にとって他愛もないことだった。この男が存在しなければ自分の存在など意味がないと思っている。だから、この男のためだったら、自分のすべてを捧げようと思うし、それは喜びですらあった。  少女は後ろにいる男の胸に頭のてっぺんを付けるように体を反らして、男の顔を下から覗き込んだ。  「ねえ、『特別な関係』って何かな。恋人?前に夫婦って言ったこともあったよね。」  ニマリとする少女に対し、男は不機嫌をあらわにした。  「お前との関係を説明するのは面倒なんだ。家族と言っても信じてもらえないし、夫婦って言ったら散々な扱いだし。」  以前、ある国で『夫婦』ということで通したことがある。色々と事情があって仕方なくそんな嘘をつき、なぜか『夫婦』であることを疑う者もいなかったのは幸いだったが、ただ変態扱いをされ続けた。少女は10歳を超えてはいたが、華奢な体つきからより幼く見える。そんな子供を妻だという男は、特別な趣向の持ち主だと思われたらしい。男は滞在の間好奇の目にさらされ続け、それは今でも思い出したくない記憶となっている。  そのほか兄妹と言ったこともあったが、年の差は良いとして、肌の色から顔立ちから何一つ共通するものがないため、誰にも信じてもらえなかった。「母が違う」と言っても疑いが深まるばかりだった。そもそも嘘をついているのだから、信じてもらえない嘘なら初めから言わないほうがいい。結果、二人の関係を問われて、嘘をつくのはやめた。  「あたしはあんたが好きだ。大好きだ。あんたもあたしから離れられないだろう?だったらもう恋人でいいんじゃないか?」  先ほどからの上機嫌のまま少女がそういうと、「調子に乗るな。」と男がこづいた。  「確かに俺にはお前が必要だが、旅をするための仲間としてだ。恋人としてじゃない。」  男がそう言うと少女は「つまらないなー。」と言いながら男の胸から頭を離し、前を向いた。口を尖らせてはいるもはいるものの、男の口にした『仲間』という言葉に、少女は十分な満足を感じていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!