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夏の残り香
夏のような日差しの中に、秋を予感させる香り。
私は焦った。もうすぐ秋がやってきてしまう。
急いで夏の残り香をつかまえなければ。
私は駅の階段を駆け上がり、反対方向へむかう電車に乗った。
海に行かなければと思った。
道を急ぐ私に、空を漂うカモメが問いかける。
「夏の残り香なんてつかまえて、どうするつもりだい? どうせ夏なんて、いつか手放すときが来るよ」
「でも、私は一度も夏をつかまえたことがない。一度でいいからつかまえたいよ」
「つかまえないほうが、かえって気が楽さ。夏を手放すとき、悲しい思いをしなくて済む」
「でも、夏をつかまえて大事に抱えている間というのは、とても満ち足りた気持ちでいられるんだよね? いつか手放したとしても、そんな満ち足りた思い出があるなら、きっと幸せだよ」
カモメの忠告はもっともかもしれないけれど、私はそれでも夏をつかまえたかった。
「君は何にもわかってないな」
カモメは寂しそうにつぶやくと、空高く飛んで行ってしまった。
「でも、一度も夏をつかまえたことがない私は、ずっとむなしかったんだ。こんなむなしい気持ちで一生を過ごすのと、ほんの一時期でも満ち足りていた思い出をもって一生を過ごすのでは、全然違う人生が待っていると思う。だから私は、一瞬でいいから夏をつかまえたい。ほんの少しの残り香でもいいから」
カモメに向かってつぶやいたけれど、きっと聞こえてはいないだろう。
私は海に向かって駆け出した。早く夏の残り香をつかまえなければ!
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