第五章 たった一度の口づけ

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「いえいえ、こまめに様子を見にきて下さって、子供たちも喜んでおります。今日はお忍びですかな」 「ああ、まあ、そんなところだ」  レオンの格好を見て聞いた院長は、なぜかうんうんと含み笑いをした。 「やはりご兄弟ですね。どうぞ祭りを楽しんでください。そういえば、子供達から聞きましたが、先日はトラヴェルソをお聞かせくださったとか。ぜひ、私も聞いてみたいものです」 「トラヴェルソ?」  意外な言葉にローズが聞き返すと、レオンは激しく狼狽した。 「そ、それは……!」 「レオン様、トラヴェルソが吹けるのですか?」  ローズが聞くと、院長はおどろいたようにその顔を見た。 「ご存じなかったのですか、奥様。先日、子供たちが興奮して話してくれました。レオン様のトラヴェルソがとてもお上手だったと」  ここでも奥様、と言われて、瞬時にローズの頬が熱くなる。だがそれよりも、レオンがトラヴェルソを吹けるという事の方が驚きだった。 「そうなんだよ! レオン様のトラヴェルソ、とってもうまいんだ」 「院長様もぜひ、聞いてみて」 「レオン様、今日も吹いて」  そう言いながら、子供のうちの一人がレオンの前に、一本のトラヴェルソを差し出す。それは、ベアトリスが持っているような豪華なものではなく、木をけずったままの質素なものだった。 「また聞かせて、レオン様」 「一緒に、踊ろうよ」  口々に言われて根負けしたレオンは、ついに子供たちの差し出したトラヴェルソを手にする。ちらりとローズに視線を流した後、彼女に背を向けてトラヴェルソを口に当てた。  レオンが軽快な音を奏で始めると、子供たちがその周りで踊りだす。楽し気なその様子を見てローズの顔にも笑みが浮かんだ。 (意外と子供好きなのね、レオン様)  しばらくその音を聴いていたローズは、は、と気づいた。 (この音……!)  その後も、もう一度、もう一度とせがまれたレオンは何曲も吹いた。そうしてあたりが暗くなる頃、ようやく二人は子供達から解放された。   ☆ 「レオン様、だったのですね」  二人で歩いて広場に向かいながら、ローズはちらりと隣を見上げた。レオンは難しい顔をして黙っている。だが、前を向いたレオンの耳が赤く火照っているのに、ローズは気づいていた。 「言ってくださればよかったのに。あのハープは私が弾いていると、ご存じだったのでしょう?」 「初めは、新しい楽師が練習でもしているのかと思った。たまたま耳にしたのだが、聞いたことがないほど優しい音色で……だから、最初のお前の印象と、重ならなかったのだ」  言いづらそうに、レオンが言った。ローズは、そう言われて逆に、なんだか愉快な気分になる。 「そんなに私、険があるように見えましたか?」 「最初は、だぞ? 今はそうは思ってはいない」 「はい。わかっております」  あせるレオンをローズがくすくすと笑っていると、ためらいがちにレオンが続けた。 「楽器の音は、吹く者の心を如実に表す。あの音を聴いて、お前に対する印象が変わったのだ。確かにお前の物言いはきつかったが、よくよく考えれば、お前の言ったことは全てお前の嘘偽りのない心からの言葉だった。そして、それらは俺を拒絶するのものでもなかった。お前は、一生懸命俺に添おうとしてくれていた。だから俺も、偽るのは……やめようと……だが……」  なぜか、レオンの言葉が尻つぼみになる。その顔を見上げると、レオンはふいに我に返ったように口調を変えた。 「くだらないと思うか?」 「なにをですか?」 「楽器など、貴族の使うものではない。公爵家に連なる俺が、トラヴェルソなど……」 「そう言われたのですか? 公爵様に」  レオンが、目だけでローズを見る。その顔に、ローズは笑みを返した。
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