咲花(さっか)

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咲花(さっか)

 雪が降っている。  真っ黒な空にちらつく白い雪は、とても、きれい。  きれい、なのに。  どうして、みんな、そんなに怒っているの。  どうして、わたしは泣いているの。  きれいなのに。  こんなにきれいなのに。  どうしてこんなに、かなしくなるの。 *  頬を伝う涙の感触。  咲花(さっか)ははっと我に返った。  あれは、夢。咲花は今まで眠っていたのだ。  ひんやりとした床から体を起こせば、庭の新緑が目に入った。灰暗い庭を覆うのは、一面の緑。葉の先から幾度も雨のしずくがこぼれ落ちる。  彼女は瞼を閉じて、深呼吸をした。  雨の残り香と、深い緑の匂いが胸の中いっぱいに広がっていく。湿り気を帯びた微風が頬に触れた。  雨上がり。まだ灰色混じりの空。重く湿った静けさだけが、咲花の目の前にある。  しかし、その静寂に小石を投げるような声が聞こえて、咲花は思わず顔を上げた。眠っている間に少しみだれた着物を直し、ためらいながらも庭へと踏み出す。  若い娘二人が話す声が聞こえる。咲花と同じくらいの年頃だろうか。咲花は庭木の陰に隠れながら、ゆっくりと石塀のほうを目指した。  見つからないように。  決して、誰にも、見つからないように。  やがて石塀のすぐそばにたどりついた彼女は、塀の隙間から外を伺った。  狭い視界に映る、緑の木々と気の早い紫陽花。その手前に、細い路地が何も言わずに横たわっている。  路地の先にはもやがかかり、まるで道が消えているかのようだった。とてもその先に、人がいるようには見えない。  それでも咲花が目をこらしていると、もやの向こうから、二人の娘が姿を現した。  その鮮やかな帯の色に、咲花の目は釘付けになる。ひとりは赤、もうひとりは黄。雨上がりのかすんだ景色の中でも、それははっきりと彼女の目に映っていた。  二人は明るい声で何かを話している。いったいどこへ向かうのだろう。おそろいの着物は水の色をしていて、花の模様がうっすらと浮かんでいる。袖からのぞく手首も、半衿の色を映す首筋も、とても細い。指先は白くなめらかで、彼女たちの笑い声とともに楽しそうに揺れる。  咲花はただ呆然と、二人の娘が通り過ぎるのを見ていた。  そのとき、娘のひとりがふとこちらを見た。咲花の視線を感じたのだろうか。  娘は石塀へと近づいてきた。  そして塀の隙間を何気なくのぞき込み、  はっと息をのんで、  次の瞬間、悲鳴を上げた。 「……お、鬼! 鬼がいるわ!」 「えっ?」  悲鳴を上げた娘は、もうひとりの娘の腕を取り、あわてて走り出した。 「ねえ、鬼って、何? どういうこと?」 「いいから、早く! 鬼に食べられてしまうわ!」  もうひとりの娘は困惑しながらも一緒に走る。草履が水たまりを跳ね上げても、きれいな着物がみだれても、とにかく二人は走った。そうして、あっという間に咲花の視界から消える。 「……鬼、……」  ひとり残された咲花はつぶやく。  鬼。たしかに彼女たちは今、そう言った。 「鬼……」  もう一度つぶやく。  鬼。そうだ。わたしは、鬼。そう呼ばれてきた。  思い出したくは、なかったけれど。 *  咲花は部屋に戻った。  そこは部屋というより、小さな牢だった。  板張りの床があって、天井と壁があって、出入り口がある。それだけだ。出入り口に鍵がかかっていないだけ、本物の牢よりは良いのかもしれない。  彼女は壁に背を預け、床に座った。床に広がる氷雨のような冷たさが、咲花の体温を奪っていく。  しかし、それが何だというのだろう。  彼女は思う。ただ床が冷たいだけだ。人の冷たさに比べれば、何ともない。  何ともないと、思いたかった。  空がまた暗くなってきた。もうじき雨が降り出すのだろう。咲花は、重暗い気持ちで空を見た。  やがて、真っ暗な空から大粒の雨が降り出すと、梅雨時とは思えない冷気が咲花を包み込んだ。  寒い。  背筋をなでていく氷のような冷たさに、咲花は震えた。歯の根がかみ合わない。手が、脚が、肌が、体中が震えている。  それなのに、喉の奥だけは異様に熱かった。呼吸をするたびに、喉が痛む。  咲花は体を横たえ、何度も何度も、ままならない呼吸を繰り返した。  ――――寒いのに、熱くて、苦しくて。  ――――まるで、あのときのよう。  咲花が思い出せる『あのとき』の記憶は多くない。あれは、いつの出来事だったのだろう。  雪が降っていた。何も見えない、何も聞こえない、真っ暗な夜。  ちらつく雪はきれいなのに、咲花を取り囲む大人たちはとてもおそろしい形相をしていた。咲花は泣いていた。泣くことしかできないくらい、幼かった。  泣いて、泣いて、頬が熱い。呼吸が苦しい。言葉を発することなどできないのに、大人たちは白状しろと咲花に迫る。咲花は、ただただ首を横に振るばかり。ついに誰かが業を煮やして、咲花の首をつかんだ。言わなければ、この首を絞めてやる。そういう意味だったのかもしれない。  彼らがおそろしかった。とても、おそろしかった。  咲花の目に、涙が浮かんだ。  今思い出しても、おそろしさで震えが止まらない。気がつけば、すでに幾筋かの涙が頬を濡らしていた。  もう二度と、思い出したくなかったのに。  どうして今になって、思い出してしまったのだろう。体がこんなに苦しいのに、この上さらにつらい記憶がよみがえるなんて。  咲花は絶望的な気持ちで辺りを見渡した。部屋の中は、もう真っ暗だった。  ああ、どうしてわたしは『鬼』なんだろう。  あの子たちみたいに、きれいな着物を着て外を歩いたことなんてない。  あの子たちみたいに、明るい声で話せる相手なんていない。  あの子たちみたいに、楽しそうに笑ったことなんて、ない。  思えば思うほど、涙が止まらなかった。  咲花は着物の袖で何度も何度も涙を拭った。  その腕は、咲花が思っていた以上にやせ細り、骨が浮き出ていた。腕だけではない。手も、脚も、胸も、腰も、首筋も。骨と皮しか見えないほどに細くなり、がさがさに荒れて。  だから、鬼などと呼ばれてしまうのだろうか。  頬を伝う涙が、また一筋増えた。 *  体が苦しいときに見る夢というのは、大抵おそろしい。  咲花はいつの間に寝入ったのか、夢の中にいた。  しかし、やはりそれはおそろしい夢だった。 「さっさと白状しろ!」 「お前がやったんだろう!」  咲花を取り囲む大人たちが、すさまじい剣幕で怒鳴っている。咲花は泣きながら首を横に振っていた。  知らない。大人たちが言う人殺しなんて。わたしは何も知らない。 「お前がやったのはわかっているんだぞ。この鬼め!」 「よくも村の子供たちを殺してくれたな!」 「容赦しないぞ!」 「さっさと認めろ!」 「どうしても認めないなら、谷につき落としてしまえ!」 「そうだ! それがいい!」 「村の平和を脅かす鬼は死んでしまえ!」 「そうだ!」 「そうだ!」 「死んでしまえ!」 「死んでしまえ!」  大人たちが叫ぶ。  殺せ。  殺せ。  鬼を殺せ、と。  咲花は泣きながら耳を塞いだ。体中がガクガクと震えて、立っていられなかった。地面にしゃがみこむと、それを取り囲むように大人たちが迫ってくる。  何かに縋るように空を見上げれば、そこにあるのは真っ暗な空。白い雪がちらついている。  昨日までなら、雪が降ったと無邪気に喜んでいられたはずなのに。  咲花は泣きじゃくる。喉も胸も苦しくて、もう一言も発することができなかった。  大人たちが咲花の腕をつかむ。  咲花にとってそれは絶望だった。  数人がかりで取り押さえられ、彼女は引きずられていく。  行く先は崖。その下は、深い谷。  見下ろす先は真っ暗で、谷底は見えない。ここは底なしの深い谷だから、子供は近づいてはいけないと教えられた。  しかし、今。  その谷は、彼女のすぐ目の前に迫っている。  咲花は悲鳴を上げることもできず、ただただ泣いていた。  大人たちはとてつもない力で咲花を押さえつけ、少しずつ崖の端に迫る。  そして、あと数歩というところまでやってくると、彼女をひとり崖縁に立たせた。  足が震えてまともに立てないはずなのに、彼らの言うとおりに咲花は立った。文字通りの、命の崖縁に。 「死んでしまえ! この鬼め!」  ひときわ力の強い男が、咲花の体をどんと押した。  何の抵抗もなく彼女は落ちる。落ちていく。  終わりの見えない、深い深い谷の底へ。 *  異様な悲鳴が聞こえた。  自分の声だった。  長い時間をかけて、ようやく咲花は夢から目覚めた。  体中が汗で冷たくなっていた。鼓動が速すぎて、呼吸が追いつかない。ここはどこだろう、と思った瞬間、咲花はぞっとした。  ――――わたしは、本当に生きているの?  咲花には、なぜ自分が今生きているのかわからなかった。あのとき、自分は崖に突き落とされて死んでしまったのではなかったのか。  答えを求めて視線を巡らせれば、部屋の外に灰暗い庭が見えた。  一面の緑。雨のしずくが葉を濡らしている。雨が止んだのか、あたりはとても静かだった。  咲花は呆然としていた。昨日、夢から目覚めて最初に見た景色に、あまりにも似過ぎている。  一体、どこまでが夢で、どこからが現実なのか。  静寂の中で彼女は考えるが、  しかし、  その静寂に小石を投げるような声が聞こえて、思わず顔を上げた。眠っている間にみだれた着物を直し、庭へと踏み出す。  若い娘二人が話す声が聞こえた。  行ってはいけない。  咲花は一瞬、そう思った。  しかし、二人の明るい声がどうしても気になり、結局彼女は石塀のほうへと歩き出してしまう。  石塀の隙間からのぞき見る景色。あざやかな着物をまとった娘たちが、こちらに向かって歩いてくる。  ――――これは、いったい何の罰だろう。  咲花は無意識のうちにそう思っていた。  あと何回、彼女たちをうらやむのだろう。  あと何回、熱と寒さに苦しむのだろう。  あと何回、つらい過去を思い出して涙を流すのだろう。  一瞬そう思い、そして咲花はすぐに忘れてしまった。  谷底に沈んだ少女が目覚める日は来ない。
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