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 ベランダの紫陽花が雨粒にゆれる朝。 薄曇りから射す朝陽が遺影に反射して、仏壇に手を合わせる奈緒の瞳を揺らした。 「お母さん、おはよう」 優しく微笑む母は、およそ一年前、不慮の事故で帰らぬ人となった。 社会人になった奈緒の姿を目にすることなく、天国に旅立ったのだ。  高校三年生の秋、アパレルメーカーから内定を貰った奈緒は、すぐ母にLINEを送った。 ー 奈緒おめでとうー!!今日はお祝いね!奮発するから待っててね! ー ありがとう!すごい嬉しい!でもムリしないでね、お母さん ー だいじょうぶ。今日は夜の仕事早退させてもらうから  六時過ぎに奈緒が帰宅すると、「八時には帰るね」と母からLINEが入った。 奈緒は「気をつけてね」とだけ返信すると、三者面談の日を思い返していた。  奈緒の担任は「小澤さんの学力なら上位校を狙えるし、推薦の条件も満たしている」と太鼓判を押し、母も奈緒が進学することを望んでいた。 しかし奈緒には、自分がデザインした服をいつか母に着てもらいたいという夢があった。  奈緒が六歳のときに離婚してから、母は昼も夜も働いて奈緒を育ててくれた。 お洒落な母が節約し、何年も同じ服を着ているのは、子供の奈緒にもわかっていた。 そんな貧しい暮らしの中でも、いつも笑顔の母が奈緒は大好きで、母のようなシングルマザーを応援する洋服をいつか自分で作ることが、奈緒の目標になった。  母と担任にこうした胸の内を明かすのは気恥ずかしくて、奈緒は話さなかったが、「自分で洋服をデザインしたい」という気持ちだけは押し通して、奈緒は就職することを選んだ。  八時を過ぎても帰らない母に奈緒は「どんなかんじ?」とLINEを送ったが返信はなく、既読にもならない。 やはり急な早退は無理だったのかと「お母さん、ムリして早退しなくて大丈夫だよ」と続けて送った。  それからおよそ三十分後の九時過ぎ、母の帰りを待つ奈緒の携帯に、知らない番号から着信があった。 「……はい、もしもし」 「おざわなおさん、ですか?」 「あ、はい……」 「私、調布中央警察署の中西と申します。落ち着いて聴いてください」  あの日からまだ一年も経たないのに、奈緒は、あの日から数日間のことを思い出せない。 慌てて病院に走ったところまではうっすらと覚えているが、医師や警察と何を話したのかは、(もや)に包まれたように曖昧だ。  つかの間ぼんやりしていた奈緒は我にかえると、仏壇の前からキッチンに移動し、慌てて朝食を済ませた。  お天気お姉さんの「傘をお忘れなく」のアドバイスどおり、奈緒が傘を持って玄関を開くと、すでに雨音が大きくなっていた。
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